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【邦画】『少女は卒業しない』ネタバレあり感想レビュー--ほとんど話が交差しない群像劇に、社会を捉えることはできるのか?


監督&脚本:中原俊/原作:朝井リョウ
配給:クロックワークス/上映時間:120分/公開:2023年2月23日
出演:河合優実、小野莉奈、小宮山莉渚、中井友望、窪塚愛流、佐藤緋美、宇佐卓真、藤原季節

 

注意:文中で終盤及びラストシーンの内容に触れていますので、未見の方はネタバレにご注意ください。あと、『マグノリア』もネタバレしてます。

 

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イギリスの社会学者ハーバード・スペンサーなどが唱えた社会有機体説では、社会を大きなひとつの生物(有機体)に例えている。人間ひとりひとりは微小な存在だが、個々が銘々勝手に関わり合いくっついたり離れたりすることで、まるで細胞が生物を形成するのと同じように、個人が社会を形成しているとする考え方だ。この社会有機体説は日本にも持ち込まれ、自由民権運動における思想にも大きな影響を与えた。

映画『少女は卒業しない』は、とある地方都市の取り壊しの決まった高校を舞台に、卒業式の前日と当日の生徒たちの様子を描いた群像劇である。卒業生でもある女子高校生4名それぞれの視点が何度も切り替わり、ある者は今からでもクラスメイトと交流しようとし、ある者は喧嘩中との恋人との関係を修復しようとする様子が描かれる。

朝井リョウによる原作小説は女子高校生の一人称で書かれた連作短編集で、同一の場所(学校)と時間軸における7人の話が独立して並んでいる。社会有機体説に倣えば、個々の細胞をピックアップして細かい動きを注視するのをメインとして、あくまで学校(学校空間もまたミニマムな社会である)は背景として描かれているのが小説版と言えよう。それぞれの短編には少しだけ別のエピソードが絡んでいき、全体が緩やかに繋がっていることで、少女たちもまた有機的な空間の一部なのだと示唆される。

映画では、原作の中から4つのエピソードを取り上げて、時間軸に沿って各エピソードをシーン単位で切り替えることで、ひとつの群像劇に変換している。空間全体を俯瞰して捉える群像劇というジャンルには、社会そのものを主体として見せる必要がある。だが本作、一向に生物としての社会が見えてこない。なぜならば、視点人物である生徒たちの「自分を変えるために一歩前に進みたい」という思いと行動がいずれも自己完結の範疇に収まっており、各エピソードが有機的に絡んでいるとは言えないからである。

どうやら本作の核となるのは、卒業式で答辞を読む山城まなみ(演:河合優実)らしい。「らしい」というのは、パンフレットの人物相関図ではまなみが中心に置かれ、他の3人の視点人物はまなみに向いた矢印で「答辞を読むことを知り影響を受ける」とあるからである。だが、実際に本作を鑑賞すると、あまり影響を受けているようには感じ取れない。一応ひとりだけセリフではっきりと言うのだが、まなみが答辞を読む重大さの理由が観客に知らされるのがその後なのもあり、唐突でしっくりこない。

さらにこの映画、同じ日の同じ場所で起きている出来事で、しかも視点人物の4人は同じクラスなのに、エピソードが交差する瞬間がほとんどないのだ。はっきり思い出せるのは1回だけ(後述)。本作と同じく朝井リョウ原作である吉田大八監督『桐島、部活辞めるってよ』もまた、一人称の連作短編集から群像劇への変換が行われているのだが、こちらは登場人物たちがあちこちで絡むことで有機的に繋がっているとともに、桐島という「不在の中心」が核となって細々としたエピソードを一体化していた。一方で本作には各エピソードに有機的な繋がりはほぼ無いし、まなみが担わされている核の力も非常に弱々しい。

実はラスト間際で、全ての視点人物が有機的に交差しそうな瞬間が訪れる。卒業ライブを控えた軽音部の口パク打込みバンド「HEAVEN'S DOOR」(ゴールデン・ボンバーみたいな感じか)だが、直前になって衣装も音源も忽然と消えてしまう。ボーカルの刹那3世こと森崎剛志(演:佐藤緋美)は、急遽ひとりでマイクの前に立ちアカペラで歌うことになるが、そこでの『Danny Boy』がまさかの美声でその場の全員が聞き惚れる。

森崎の美声は学校全体に響き渡り、別の場所に聴いたまなみはライブ会場である体育館に思わず駆けつけるわけで、これが先述した別個のエピソードが直接的に交差する唯一の瞬間である。でも、まなみだけなんだよ。あとの2人は歌を聞いてもいないし、それ以前に出ても来ない。ついでに言えば、まなみが駆けつける理由だって、よく解らないし。急に死んだ恋人に聞かせたかったとか言い出すけど、特にその恋人と森崎と親しかったなどの前フリは無い。

※ 追記:森崎がこっそり練習している歌声をまなみの恋人が聞いていて覚えてしまったという前フリがありました。

これ、『マグノリア』におけるカエルのように、独立していた複数のエピソードが森崎の美声によって1ヶ所に合流していくようなオチにすれば、個々の生徒の想いや行動が有機的に絡み合って学校(社会)は形成されるのだと、説得力を持って提示できたかもしれない。森崎のエピソードだけはエンタメ的であるし、映画的な虚構性との塩梅からしても最適であろう。

森崎の歌の後に配置されている本当のラストでは、まなみがひとり体育館で答辞を読む声が流れる中、各人物の卒業式後の様子が挿入される。おそらくこれにより「まなみが核となり、全てが繋がっている」としたいらしいが、なんで似たようなことを2回も続けてやっているのかと疑問が浮かぶし、ありふれた内容の答辞を滔々と読むだけでは、迫力では森崎の歌声には遠く及ばない。

※ なお、森崎のエピソードでの視点人物は、軽音部部長で森崎に片想いしている神田杏子(演:小宮山莉生)である。これ原作では同じく森崎に片想い中の後輩が視点人物であり、神田(もちろん衣装と音源を隠した犯人)の行動を客観的に捉えているのだが、映画では神田を視点にしてしまったために随分と平坦な話になってしまっていた。いや、「卒業直前に行動を起こす人」をメインにしようとする意図は解るのだが。

パンフレットに掲載された中原俊監督のインタビューや対談を読む限り、どうやらすぐに自分自身の話に持っていく人らしい。劇中ではまなみの恋人が転落死しているのだが、そこから5年前に母親が死んだ話を持ち出すし(それ事情が全く違くないか)、自分がバスケットボールを20年やっていたからバスケのシーンに拘ったとか平然と言うし。自分自身についてしか興味を抱くことができない、極めて私小説的な感性の人なのかもしれない。このタイプの人が、社会全体を大きく捉える必要のある群像劇を撮るのが不得手でも仕方ないことではある。
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