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【邦画】『Arc アーク』ネタバレあり感想レビュー--SF事象をぼんやりとした世界観の中に落とし込むために、石川慶監督の才能は発揮される

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監督:石川慶/脚本:石川慶、澤井香織/原作:ケン・リュウ
配給:ワーナー/上映時間:127分/公開:2021年6月25日
出演:芳根京子、寺島しのぶ、岡田将生、清水くるみ、井之脇海、中川翼、中村ゆり、倍賞千恵子、風吹ジュン、小林薫、鈴木咲

 

注意:文中で終盤の展開に触れていますので、未見の方はネタバレにご注意ください。

 

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本題に入る前に、どうしても言いたいことがひとつ。英単語の後ろにカタカナで読み方がくっつく映画タイトル、本当にやめてほしい。入力も面倒くさいし、読むときも迷う。「アーク、アーク」と続けて読むのが正しいのだろうか。せめてカタカナのほうをカッコで括るかハイフンで挟むかしてくれれば、ああこれは読み仮名なのだなと判断できるのだが。

さて、『愚行録』はその年のワーストにしたし、『蜜蜂と遠雷』も世評に反して物足りなさを感じており、個人的には相性のよろしくない石川慶監督の最新作。専門スタッフを総動員させた大掛かりな映像美によって主に視覚から叙情を訴えるのを得意としていて、たしかにその点では圧倒される。そんな映像美への執着への一方で、物語へのこだわりは薄いように感じる。シーン単位では記憶に残る瞬間がいくつもある『蜜蜂と遠雷』も、全体的な脚本自体は群像劇だとしても散漫で、それゆえ話だけ抜き出せばカタルシスがない。

そんな石川監督の最新作が、ロジカルな辻褄合わせが最も重要となるジャンル・SFである。知ったときは相当な不安を覚えたが、先に結論を言うと、意外にも石川監督の持ち味には合っていた。原作は、SF小説界隈で話題沸騰中の逸材であるケン・リュウによる短編小説『円弧(アーク)』。原作は老齢となった主人公の回想という体で、完全な個人の一人称による話である。不老不死を起こす医学的なメカニズムとか、社会はどのように変化したとかはさして語られず、SF的な事象と個人が内包する倫理観がダイレクトに結びつけられ、それが真理の探究へと繋がっている。

 

一方の映画では、不老不死の薬が開発・認可された世界を舞台にする以上は、さすがに社会状況も描写する必要があるだろう。だがここは映画でもあっさりしている。薬が高価なために経済力で命が線引きされていると巻き起こるデモや、出生率が激減して自殺が増えたなどの情報もあるにはあるが、劇中では些末な扱いである。そもそも、時代も場所もぼんやりとしているので、社会がどうのこうのという点はあまり気にならない仕組みだ。

17歳のリナ(演:芳根京子)は、産まれたばかりの息子を残して放浪の旅に出る。19歳のときにエターニティ社の社長・エマ(演:寺島しのぶ)に拾われる形で、プラスティネーション(遺体の血液と防腐剤を入れ替える技術。「人体の不思議」展のあれ)によって遺体を在りし日のままの姿で保存するボディワークスの仕事に就く。

エマの弟であり同じ会社の役員でもある天音(演:岡田将生)は、プラスティネーション技術を発展させて、不老不死の薬を完成させる。そしてエマを会社から追放し、不老不死の薬の開発を会社のメイン事業にする。天音の夫となっていたリナは30歳の時に、不老不死の施術を受けた最初の女性となる。そして時は一瞬で過ぎてリナは30歳の見た目のまま89歳となり、スクリーンはモノクロになる。

劇中世界では西暦何年なのか曖昧にしているので、時制が変わるとテロップで「89歳」というようにリナの年齢が出る。だがリナは不老不死となったため見た目が解らず、しかも89歳になってからは途中で回想シーンも挟まるので、観客はいつの時代か混乱する可能性がある。そのため「今は89歳のシーンですよ」と説明するためのモノクロであり、以降の回想シーンでは、対比のために強めの色がついている。

天音は先天的な理由によって薬の副作用が発生し、リナが32歳の時に一気に老化して死んでしまっていた。天音は生前、副作用や年齢制限によって不老不死の施術を受けられなかった人々が暮らすための老人ホームのような施設を建設しており、89歳のリナは、そこで医者として働いている(原作では医大に通う経緯も簡単に語られるが、映画ではカット)。ある日その島に、利仁(演:小林薫)と茉美(演:風吹ジュン)の老夫婦が訪れた。茉美は入所するが、利仁は近くの小屋を借りて暮らすという。リナの5歳の娘・ハル(天音は生前に自分の精子を冷凍保存していた)と妙に気の合う利仁だが…

ここから誰でも推察できるオチそのものは、別に重要ではない。不老不死というひとつの嘘を世界に注入することで、既存ではありえない人間関係を構築し、そこを踏まえて既存の倫理観を揺さぶっていく。それが、この映画最大の目的だ。その際には、原作から受け継がれた「個人は、誰の所有物でもない」というテーマが非常に重要になってくる。問いかけは常に社会の外側に向けられているのが、野心的である。

おそらく不老不死を扱ったSF作品としては、普遍的な問いではあるのだろう。だがここに、石川監督お得意の大胆で拘り抜いた映像美が付随することで、問いへの強度が増し、作品を唯一無二の物にしている。

たとえばボディワークスの最後の工程で、遺体と繋がったいくつもの紐を、能舞台のような派手な動きによって一瞬で引っ張り、ポージングの仕上げとする。改めて考えると意味は不明だが、映像としての迫力が勝り、「死者に命を吹き込むかのような儀式の意味」という問いを発生させる。場所が香川県庁舎(丹下健三設計のモダニズム建築)のロビーという直線で構成された重厚で冷たい空間なのも、躍動的な動きを際立たせている。

SF事象を扱う上で、劇中の舞台をぼんやりとあやふやにすることでロジカルなツッコミを回避する方法は、よく採用されている。だがぼんやりとしたものを表現するのは、細部を緻密に設計するよりも技術が必要であり、そこで手を抜くと途端に悲惨な結果となる(この傾向は自主制作などの低予算映画で強いが、エンタメ大作でもやらかしていることがままある)。石川慶監督は、大胆な映像美に説得力を担保させて、SF事象からロジカルな側面を消し去ることのできる、稀有な才能を持つ人物なのである。
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