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【邦画】『なのに、千輝くんが甘すぎる。』ネタバレあり感想レビュー--「片想いごっこ」を守る者と攻める者による壮絶な恋愛バトル


監督:新城毅彦/脚本:大北はるか/原作:亜南くじら
配給:松竹/上映時間:98分/公開:2023年3月3日
出演:高橋恭平、畑芽育、板垣李光人、莉子、曽田陵介、中島瑠菜、箭内夢菜、鈴木美羽、末永光

 

注意:文中で終盤の内容に触れていますので、未見の方はネタバレにご注意ください。

 

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中学高校の特に女子生徒は、否が応でも恋愛とアイデンティティが直結してしまう状況下にいる。付き合う相手によって小さな集団でのステータスは変動するゆえ、居場所を確保する手段として恋愛行為を利用するようになっていくのだ。さらに、対外的な面でそのように強制されるのだから、どうしたって内面の部分でも恋愛行為の手段化からは逃れられなくなる。付き合っている相手のことよりも「○○と付き合っている自分」のほうが、より重要視されるのである。

そんなアイデンティティ確立のための恋愛行為の中でも「片想い」は、極めてお手軽な手段である。千石撫子が代表例だが、一方通行で自己完結した想いの内側に籠るだけで、いとも容易く「恋に恋する乙女」を自己演出できるのだから。ほら、クラスに必ずいたでしょ、片思いの相手を周囲に公表して「○○君と目が合っちゃった~」とか大声で言っている女子。あれは「○○君が好きな私」に成りきって自己演出することで、対外的にも内面的にもアイデンティティを確立しているのだ。集団の中で居場所を確保するための一種の防衛本能とも言える。

 

亜南くじらの少女漫画を原作とした映画『なのに、千輝くんが甘すぎる。』は、高校2年生の如月真綾(演:畑芽育)が主人公。園芸部のメガネ男子(語尾が「ありまする~」というアナクロにもほどがあるオタク)に思いを寄せており、こっそりと盗み見る毎日を過ごしている。如月、物陰でずっとブツブツと独り言を口に出しているので、なかなか怖い。ある日、ついに物陰からいきなり飛び出して告白するも、「誰?」と言われたうえに「無理無理無理」と逃げられてしまう。

見事に玉砕したうえに、そいつにSNSで「知らない女に告られた! マジキモい しかもBUSU」などと書かれて落胆する如月。講談社の本ばかり置いている図書室で、またもやそれまでの経緯や感情を独りブツブツと喋りまくっている。すると、誰もいないと思っていた図書室に学校イチのイケメン・千輝彗(演:高橋恭平)がいて、全てを聞かれてしまっていた。少女漫画原作の邦画では主人公の脳内を全てナレーションすることが多々あるが、脳内を全て口に出していて、しかもそれを誰かしらに聞かれるのは、なかなか珍しい。

※ ちなみに原作漫画では、つい感情が高ぶり思わず口に出してしまったところを聞かれたとなっており、まだ現実味があった。

翌朝、登校中の電車で再開する如月と千輝。千輝は、失恋のショックを上書きして忘れるために「俺に片想いしろ」と、如月に「片想いごっこ」を提案してくる。自分からしたら雲の上の存在である千輝に片想いするなど恐れ多いと如月は逡巡するが、結局は「片想いごっこ」を受け入れる。傷を負った内面的なアイデンティティを修復して再構築するために「片想い」という行為そのものを利用する。まさしくこれは恋愛行為の手段化であろう。

しかし如月は「人は恋をすると、みんな常識的なストーカーになっちゃうんです」という過激な思想を持っていた。さっそく「片想いごっこ」の具体的なミッションをリストアップする如月。一日に見かけた回数などを数えて記録するなどの可愛いものから、「机に頬ずりする」「匂いを嗅ぐ」といった普通に引くレベルのものまである。さすがは常識的なストーカー、ただただ怖い。まず、常識的なストーカーってなんだ?

しかし敵もさるもの、いや、この場合は敵と言っていいのか解らないが、千輝は千輝でなぜか「片想いごっこ」の体裁を壊しにかかる。片想いされる相手なのだから何もする必要は無いはずなのに、なぜか如月に積極的に関わってくるのだ。如月のミッションには片想い相手の個人情報のチェックがあるのだが、その内容を既に知っている千輝は、聞かれてもないのに連絡先も休日にどこにいるかも如月に教える。ミッションを達成するための手助けって意味らしいが、それもう「片想いごっこ」ではないだろう。

あげく、千輝は如月に膝枕してくるわ、2人で神社デートするわ、やたらと直接的に好意を寄せてくる。「水族館と神社で迷ったが、如月さんの顔を見たいから神社にした」みたいな歯の浮くようなことを言い放ち、如月は「魚に勝った」と喜んでいるけど、片想いされる側の千輝のほうが積極的にアピールしてくるため「片想いごっこ」の構図が根本から成り立っていない。マジで「片想い」って単語の意味を知らないのかと思った。

※ ちなみに原作では神社デートではなく「妹へのプレゼントを買いたいから付き合ってほしい」という体なので、一応「片想いごっこ」は成立している。基本、原作から改変したところがおかしいんだよな。おそらく脚本の大北はるかが戦犯。

これ混乱するのは、そもそも「片想いごっこ」を提案してきたのは千輝のほうなんだよね。逆ならともかく、自分で言っときながら如月に積極的に絡んで「片想いごっこ」を壊そうとしてばかりいるのが不気味。観客からすれば千輝は「何を考えているのか解らない」状態なのだが、漫画だとクールでミステリアスと受け取れるんだけど、実写化したら狂気を孕んだサイコパスみたいになってしまったようだ。目元まで隠れる前髪もサイコパス感を更に増幅させているし。

かくして、常識的なストーカー女と何を考えているか解らないサイコパス男による、まるで秀知院学園の如く異常者たちの恋愛頭脳戦が繰り広げられるのである。もはや本来の目的である「失恋のショックを上書きする」はどこかに行ってしまい、「片想いごっこ」を守る者と攻める者が何度もぶつかり合うばかり。そして、そんな手に汗握る攻防戦は、唐突な自動車事故(正確には違うが)により決着を待たずしてなあなあとなる。

急に物語が方向転換することもあり、最終的にどちらが勝ったのかは判断が難しい。順当に見れば、千輝の謎の行動の理由(それにしたって・・・、とは思うが)が明らかになったうえでのラストシーンから判断するに、目的を達成した千輝の勝ちでいいのだろう。本来「片想いごっこ」は「失恋のショックを上書きする」という内面的なアイデンティティを確立するための手段だったはずが、千輝の意味不明な行動のせいで、如月は「恋愛ごっこ」を成立するのが目的になってしまっていた。手段の目的化は、必ず破滅を呼ぶ。異常な手段とはいえ、目的がはっきりしていたうえに恋愛行為は自己のアイデンティティ確立とは無関係だと最初から認識していた千輝に負けるのは当然であるか。

だが、ここでもう一人の登場人物を俎上に上げなくては、フェアではないだろう。原作から相当にキャラ変されているのだが、如月のことが気になっている純朴な男・手塚颯馬(演:板垣李光人)の存在である。真面目な話の時ですら如月を「仙人」と馬鹿にしたような渾名で呼ぶこと以外は、手塚は相当にマトモな感覚の人だ。しかし紆余曲折ありって如月は、常識的なストーカー行為を手塚もまた千輝に対して行ってるのだと指摘する。つまり千輝に「片想い」していたのだと、手塚に納得させてしまうのである(いきなりBL展開!)。「片想いとは、常識的なストーカーである」という自分と同じ過激思想をひとり増やしたとすれば、如月もまた勝者ともいえるのかもしれない。
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