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【邦画】『よだかの片想い』感想レビュー--物語化によって他者を理解しようとするのは不毛なときもある


監督:安川有果/脚本:城定秀夫/原作:島本理生
配給:ラビットハウス/上映時間:100分/公開:2022年9月16日
出演:松井玲奈、中島歩、藤井美菜、織田梨沙、青木柚、手島実優、池田良、中澤梓佐、三宅弘城

 

注意:文中で終盤の展開とラストシーンに触れていますので、未見の方はネタバレにご注意ください。

 

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大学院生で研究一筋のアイコ(演:松井玲奈)には、生まれつき顔の左側に大きな痣がある。そんな折、友人の編集者から頼まれて取材を受け、表紙に顔写真が掲載されたルポルタージュ本が話題となる。その本の映画化の話が出て、監督の飛坂逢太(演:中島歩)と出会ったアイコは、次第に惹かれていく。

 

ルッキズムにまみれた社会を鋭く斬るような話ではない。映画の大半はアイコの視点で進むのだが、痣に対して反応に困ったり勝手に気持ちを慮ったりといった型通りの人物は出てこない。アイコが街中の路上を歩くシーンは何度もあるが、すれ違う人が顔を見て反応することすら、一度も無い。少なくとも、美醜に対する好奇心を含んだ無記名の視線は、本作中には全く存在しない。あまりにも大衆が無視されているので、逆に意図的なものを邪推してしまうほどだ。

具体的な短いエピソードには、何度か危うい瞬間がある。たとえば、劇中で制作する映画において痣のある主人公を演じる俳優・まりえ(演:織田梨沙)は、痣のある人の気持ちを知ろうと痣のメイクをしたまま街を歩いたと、アイコに言う。あるいはアイコの大学のミュウ先輩(演:藤井美菜)は顔にやけどを負い、その絶望の気持ちをダイレクトにアイコに伝える。観客は、それらを聞いているときのアイコの内心を想像し、"残酷"な状況であると感じ取ってしまう。

だが、アイコの本心を勝手に想像して"残酷"だなんだと感じるなんて、単なる観客のエゴではないか。"残酷"と感じること自体が、無自覚な先入観を浮き彫りにしているのだから。アイコの回想による、小学校の教室のシーン。クラスメイトのひとりがアイコの痣を「琵琶湖みたいだ」と指摘し、クラス中の注目を浴びる。アイコ自身は注目されることによる優越感があったが、担任教師が激怒し、アイコに謝罪をする。他人の見た目をいじるのは社会通念上は良くないことであり、教師の判断は真っ当だ。だが、この一件でアイコは、自分の顔の痣は社会の上では恥ずかしいものだと思わされる。

あらゆる事物と同様に、アイコの痣は痣であり、それ以上でも以下でもない。だがあらゆる事物は、社会を形成する一部となった瞬間に、役割や属性が与えられてしまう。そして人間が営む空間ならば絶対に社会が形成されるのだから、痣も、顔に痣のある人も、社会の中での属性を否応なく付加されるのだ。小学校の教室という社会とは何かを学ぶ場で、自分の痣が社会通念上ではどのような属性なのかを知ってしまう。そして社会に出たアイコは、社会における「顔に痣のある人」という属性に沿った、それ相応の生き方を選んでいる。

さて、アイコと恋仲になる映画監督の飛坂は、「アイコを映画にすることで理解をしようとする」という手段を取る。この映画はドキュメンタリーではなく俳優が演じる劇映画であり、脚本も飛坂が書いている。脚本を書く=物語を作るのは、主題となる何かしらにロジカルな辻褄合わせをするのと同義だ。飛坂の行為はアイコに物語を与える行為であり、それはつまり社会における属性を与える行為とよく似ている。

それではアイコを理解することはできないであろう。すでに小学生の時点でアイコは社会の中での属性を与えられてしまっており、現在はずっと上のステージにいるのだから。今さらもう一度属性を与えようとしたって不毛なだけだ。現に、飛坂は最終的にはあっさりとアイコから別れを切り出されている。物語を付与させて映画にすることで何でも理解できるなんて、業界人の驕りでしかない。

そして重要なのは、そんな映画の力を妄信して失敗する物語が、まさにその映画で語られているという入れ子構造になっている点だ。本作『よだかの片想い』を鑑賞し、アイコの気持ちを勝手に社会通念上の価値基準に勝手に当て嵌めては怒ったり哀れんだりしている観客こそが、映画の力を妄信しているマヌケだと看過される。脚本の城定秀夫はティーチインで「映画というものの原罪を感じる」と言ったらしいが、そこには物語化によって生じる暴力性も含まれるのであろう。

本作のラストシーンにおいて、ミュウ先輩がアイコにする行為は、社会通念からすれば正しいのかどうか。現代の社会では人を見た目で判断する行為には「悪」という属性が付けられているのだから、ミュウ先輩に対して「それではダメだ」とするのも間違っていないかもしれない。だがその直後、非常に美しく幻想性を帯びた終わり方が用意されている。社会だの物語だのから完全に解き放たれた「観たかったもの」が最後の最後に提示され、その魅力に観客は圧倒される。社会の属性と呼応した物語化だけが映画の力ではない。逆に映画には、社会の属性による固縛を解く力だってあるのだ。
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