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【邦画】『青くて痛くて脆い』ネタバレあり感想レビュー--原作にはない「主人公以外の視点」が共感性の邪魔をする

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監督:狩山俊輔/脚本:杉原憲明/原作:住野よる
配給:東宝/上映時間:118分/公開:2020年8月28日
出演:吉沢亮、杉咲花、岡山天音、松本穂香、清水尋也、森七菜、茅島みずき、光石研、柄本佑

 

注意:文中で終盤の展開に触れていますので、未見の方はネタバレにご注意ください。

 

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大学の新入生・田畑楓(吉沢亮)は、世界平和をマジで願うヤバい女・秋好琴乃(杉咲花)との2人だけで、秘密結社サークル「モアイ」を結成する。しかし3年後、「モアイ」は社会人との交流に精を出す意識高い系の就活サークルに変貌していた。この世界からいなくなった秋好の復讐のために、楓は「モアイ」をぶっ潰す計画を立てる。

原作は住野よるの小説。すべて楓の一人称で書かれていて、登場する人物や出来事は楓の視点を通している。そのため、回想での秋好は美化され、現状の「モアイ」は醜悪な存在として書かれている。一人称小説であるがゆえ自然に楓との共感を促される読者も「巨悪をぶっ潰す正義」に同調する。ところが終盤で楓が様々な人と対峙し、自らの「青さ」「痛さ」が他者の指摘によって露わになってくる。この一連によって、楓と同調していた読者も同様に「青さ」「痛さ」を伴う過去を記憶の奥底から引きずり出される、という仕掛けだ。

対して、その小説の映画化である本作は、序盤から楓以外の視点も含まれている。弱みを握ろうと「モアイ」のイベントに友人の董介(岡山天音)が潜入するのだが、ここでは参加者の口元のアップを並べていかにも意識高い系の会話が繰り広げられている様子が嫌味に演出されている。だがこれは、(この場にはいない)楓の主観映像ではない。

まあこれは、計画に協力している董介が楓と同じ感情を「モアイ」に抱いているがゆえの演出で、ギリギリ楓の主観だと判断できるかもしれない。だがこの直後、董介の知人でともにイベントに参加しているポンちゃん(松本穂香)が、董介の怪しい動きを遠くから見ている描写が入る。完全に楓とは異なる視点が、序盤から登場する。

このポンちゃん、新進気鋭の若手女優が配役されていることもあり、前半では大きな存在感を見せる。楓たちの計画を盗み聞きしていたことも最初から示され(原作では後半に明らかにされる)、彼らの不穏な動きを観察して、時には計画を潰すよう大胆な行動を起こす。この物語における、客観的な視点を担っているわけだ。原作では、はっきりと脇役というか、本筋では無いエピソードを担っている存在なのだが。

でもこのポンちゃん、たしかに客観的視点からくる強烈な一言を残すものの、そのあとはフェードアウトしたまま登場しない。その一言だって、楓ではなく董介に対してだし。その一言が董介を心変わりさせ、楓と袂を分かつというようにドミノ倒し的に作用するのだが、それでも使い捨て感は拭えない。ポンちゃんが原作通り最初から脇役ならいいのだけれど。

以上は一例だが、どうも映画に挿入された「楓の視点」以外の要素が、楓が内包している「青さ」「痛さ」の共感性を薄めてしまっているようなのだ。完全な一人称では無くても、観客が主人公と自分を同一視するのは不可能ではないが、今回に関してはポンちゃんを始めとする第三者の視点が序盤から楓を客観的に捉えてしまい、共感を得にくくさせている。

楓は「モアイ」の集めた名簿が企業に流出している証拠を掴み、ネットに流す。この行為自体は間違っているとは言い切れず、それでも楓が「青い」「痛い」と最後に突き付けないといけない。非常に危ういバランスで物語を成立させなければならず、たしかに原作は巧くいっているのだが、映画ではここが崩れてしまっているように思える。まだクライマックスより手前なのに、どっちもどっちな感じになっちゃっているというか。

原作は楓の一人称なので、あくまで楓の内面はどうなのかだけで済む。「モアイ」が間違っているかとかは、議論の外に置いておける。だが他者の視点を散りばめた映画では、そのような外側にも気配りが必要となる。董介やポンちゃんや、何より秋好について何もフォローが無いのでは、消化不良を起こす。この映画、見つめられる側であるはずの秋好の視点も多いのだし。

他者の視点が多くなったのは、単純に解りやすく説明したかったからだろうか。物語の単純化は必要だが、それで楓の「青さ」「痛さ」への共感性を薄めてしまっては元も子もない。映画オリジナルの森七菜のエピソードとか、パラパラ漫画も、状況説明のために用意されているようだし。無駄に説明過多なのだ。

楓と秋好が2人で対峙する、映画の肝となるクライマックスのシーンがある。普通なら全てを理解した秋好が楓をボコボコに打ちのめすのが定石のところ、実は秋好のほうも楓を理解していないのが目新しい。会話の中で徐々に露わになる楓の「青さ」「痛さ」に、秋好が気づいては戸惑い始め、やがて罵り合いになる。「数秒前までは取り返しがついたのに」という後悔も相まって痛々しさで充満する名シーンであるが、楓が去った後の秋好の顔を映してしまう説明過多がここでもあり、場の空気感を薄めてしまう。

解りやすさの極め付きが「もしかしたらあったかもしれない架空の回想」ね。そんな安い話だったの、これ。いや、この安い妄想が楓の「青さ」「痛さ」の源流かもしれないが、こうして映像にさせられると一気に醒める。だって観客は楓と自分を同一化させてもらっていないのだから。楓の「青さ」「痛さ」が観客個人の実体験と結びつかず関係ないものとして捉えれば、単に愚かな人を外から観察しているだけになってしまい、カタルシスは得られない。

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