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【邦画】『Pure Japanese』ネタバレ感想レビュー--ディーン・フジオカのナルシシズムを否定する行為もまた、ナルシシズムなのである

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監督:松本大司/脚本:小林達夫
配給:アミューズ/上映時間:88分/公開:2022年1月28日
出演:ディーン・フジオカ、蒔田彩珠、渡辺哲、金子大地、坂口征夫、村上淳、嶋田久作、別所哲也

 

注意:文中で終盤の展開に触れていますので、未見の方はネタバレにご注意ください。

 

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ディーン・フジオカが企画・プロデュース・主演を務めたバイオレンスアクションである。主導権が手中にある以上、ディーン・フジオカの純然たる思いが(意図的にせよ無意識にせよ)本作に反映されているとして間違いないであろう。『えんとつ町のプペル』西野亮廣の思い描く理想の西野であったのと同様に、『Pure Japanese』にもディーン・フジオカが理想とする自分自身が描かれているはずだ。

日光江戸村(をロケ地とした架空の時代劇テーマパーク。だけど、ひこにゃんはいる)でチャンバラショーを行っているアクション俳優の立石(演:ディーン・フジオカ)だが、過去のトラウマによって人を刀で斬る仕草ができず、現在は効果音を務めている。ある日、女子高生のアユミ(演:蒔田彩珠)が地元ヤクザ・長山組の若い衆に絡まれているのを助けたため、そこから立石とアケミは親しくなる。長山組は県会議員の黒崎(演:別所哲也)とつるんで温泉の出る土地を買い上げ中国人ブローカーに売ろうと画策しているのだが、アユミの祖父・隆三(演:渡辺哲)だけが自分の土地を手放していなかったのだ。

敷地にゴミを撒かれるなど長山組の執拗な嫌がらせが続き、ついには隆三が倒れ、後に死んでしまう。これ幸いとアユミを脅して強引に書類に判を押させようとする長山組に対して、立石がトラウマを乗り越えて立ちはだかり、組員たちを日本刀でバッサバッサと斬り倒す。って話だと思うじゃん。いや、たしかに大枠はそうなんだけど、この映画は途中から様相がおかしくなるので、スカッとする復讐劇になってないのである。

隆三が倒れた理由は黒崎に毒を盛られたからだと立石は主張し、黒崎の事務所では大暴れする。しかし倒れた日の状況を客観的に見ると、隆三が死んだのは立石が転ばせてしまったからとの可能性がある。立石は、暴れた件で警察に呼ばれたときも正当防衛だったと平然と嘘をついているので、簡単には発言を信用できない。

※ 劇中では真相が判断できなかったが、公式サイトによると立石には虚言癖があり、毒の件は彼の妄想だと書かれている

さらには、立石のトラウマの理由が、海外でのアクションシーンの撮影で相手の顔を日本刀で突いて死なせてしまったためだと明かされる。目撃していた千田(演:村上淳)によると、そのときに立石は笑っていたのだという。小学生時代にイジメてきた同級生を死なせた回想シーンなども挟まり、立石は衝動的に殺人を行う異常者であったと判明する。そのため、また誰かを殺してしまうのではと恐れるがあまり、人を刀で斬る仕草ができないのであった。

こうなると、クライマックスの見せ場である、立石が組員を順番に残酷な描写で斬り殺していく長尺のアクションシーンも、意味が変わってくる。アユミを守るためではなく、自らの殺人衝動を正当化するためにアユミを利用しているとしか思えないのだ。その状況作りのために隆三を死なせたとすら捉えてしまう。

しかも、そんな立石による殺戮の過程で、アユミが銃に撃たれて死んでしまう。撃ったのは黒崎であり、その直後、アユミの復讐とばかりに立石は黒崎を惨殺する。ラスボスである長山組組長(演:坂口征夫)との対峙の前に、あっさりとヒロインが脇役に殺されるって、物語の定石からかけ離れている。元から極悪非道な長山組の連中と違って、黒崎は事態に巻き込まれているとも言えるので、立石が殺すにはそれなりの理由が必要だが、そのためだけにアユミを死なせているみたいだ。

アクション展開の理由付けのために守るべき存在が都合よく動かされる脚本はありがちだけど、ここまでヒロインの死が適当に扱われているのは、さすがに珍しい。勧善懲悪の構図がまったくもって成立していないので、ディーン・フジオカが片っ端から敵対者を殺しているのに、爽快なカタルシスが微塵も無い。どういう気持ちで観ればいいのか戸惑うばかりだ。

このような王道の勧善懲悪の物語への拒絶こそが、ディーン・フジオカが理想とする自分自身なのかもしれない。ディーン・フジオカの特徴を聞かれて真っ先に思い浮かぶのは、あまりに端正すぎる顔の造形と、あまりに鍛え抜かれた肉体美である。ルッキズムだなんだ議論する気すら無くなるような、圧倒的な見た目が事実として存在している。それこそが、ディーン・フジオカに常に付きまとう、ある種の呪縛である。

深田晃司監督『海を掛ける』において、その圧倒的な見た目を"外から侵入してきた異物"として扱ったが、それは舞台がインドネシアでありディーン・フジオカが遠い国の人間だから成立したわけである。日本人の中にディーン・フジオカが混じっても、その見た目は突出するものの"異物"とまではなりえない歯痒さがある。減点法だと何も引かれない見た目は、なかなか潰しが効かないのだ。ディーン・フジオカは、王道の勧善懲悪の物語を拒絶することで、そんな見た目の呪縛から逃れたかったのかもしれない。

もしもディーン・フジオカが自分主演で王道のヒーロー然とした映画を撮れば、ナルシシズムの印象を免れられない。圧倒的な見た目を持ってしまった者は、常に周囲に向けてナルシシズムを否定しなければいけないのだ。その一環としての、王道の物語の拒絶である。だが悲しいことに、ナルシシズムを否定する行為もまた、ナルシシズムなのである。本作も結局は、「あのディーン・フジオカが残虐な殺人鬼の役に挑戦」という文脈で処理されるのみで、圧倒的な見た目の呪縛からは逃れられていない。それがつらい。

なお、肝心のアクションだが、昨今の日本映画の悪癖に違わず、やたら細かくカットを割っており何が起こっているのかすら解りづらいものであった。いつもと同じように編集しているだけなのか、カットを大量を割って誤魔化さないといけないくらいディーン・フジオカのアクションが下手だったのか、どっちなのかは判断できない。もしも後者であれば、むしろ下手なアクションを真正面から見せてくれたほうが良かった。それこそが、ディーン・フジオカにとってはナルシシズムからの解放であるのだから。
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