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【邦画】『ハニーレモンソーダ』ネタバレあり感想レビュー--少女漫画の王道フォーマットを用いながら現代の価値観にアップデートさせているのはさすが

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監督:神徳幸治/脚本:吉川菜美/原作:村田真優
配給:松竹/上映時間:111分/公開:2021年7月9日
出演:ラウール、吉川愛、堀田真由、岡本夏美、坂東龍汰、濱田龍臣、柳ゆり菜、柳美稀、野々村はなの、村田凪、小山内花凜、香音、坂東彦三郎

 

注意:文中で中盤以降の展開に触れていますので、未見の方はネタバレにご注意ください。

 

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自己肯定感の低い女子高生が学校イチのイケメンに付きまとわれることで自信を持つようになるという、少女漫画における王道のフォーマットをそのままなぞるかのような話である。海や祭りや看病といったイベント事や、決め台詞を言ったあとに一拍置いてBGMが流れる演出なども型通りだ。もちろん話の骨格がベタだからといって、それ自体は別に悪いことではない。注意すべきは、昔からあるフォーマットである以上、性差における古い価値観(「男は、女はこうあるべし」的な)と非常に相性が良いというトラップだ。ここを現代の価値観に合わせてアップデートできるかが重要で、本作『ハニーレモンソーダ』は、かなりの成功を収めていたのではないかと思う。

原作は村田真優による少女漫画で、2016年から現在も連載中と、割と新しめの作品。いつものように未読で、ジャンル自体の変遷についてもまったく無知で、本当に申し訳ない。あくまで「少女漫画を実写化した映画作品」として過去作と比べると、地味な主人公に付きまとうイケメン(王子様役)が、割と珍しいタイプではないかと思われる。

 

冒頭シーン。学校内で人気のイケメン・三浦界(演:ラウール)を含むグループが、キラキラ演出で登校してくる。周囲の女子たちがキャーキャー騒ぎ立てていたところ、「調子に乗るなよ」と男子学生3人が立ちはだかる。すかさず界は手に持っていたハニーレモンソーダのペットボトルのキャップを空け、男子どもにぶっかける。と、そこに通りかかった本作の主人公・石森羽花(演:吉川愛)にもかかってしまう(この瞬間、イケメン登場演出がパタッと止まる)。ちょっと慌てた顔で、小さい声で「ごめん」と呟く界。

界はレモンのような金髪で、背は高いが体の線は細く、中性的な見た目だ。そこにきて、か細い声の「ごめん」が最初のセリフとなれば、少女漫画おなじみの上から目線のオラオラ系とは全くタイプが違うイケメンだと印象付けられる。ミステリアスで何を考えているのか解らない、同じ人間というよりは妖精とか天使とか、そんな神秘的な存在。ミステリアス性には論理的な理由があると後半に判明するが、第一印象のツカミとしては万全だ。

本当にこのジャンルを読まないので想像が多分に含まれているが、少女漫画には神秘的なイケメンも登場するのだろう。だが実写映画にする際、神秘的な空気感をまとった存在を生身の人間が演じるのは相当に難しい。タイプは違うが、『溺れるナイフ』の菅田将暉くらいしか、パッと思いつかない。おそらく実写化の際に、キャラクター修正が行われているのではないだろうか。だが、ここにきてラウールである。素材としての「あなたたちとは同じ種族じゃないですよ」オーラの説得力たるや。概念の具象化かもしれない。

※ ちなみに、イケメンではなく「神秘的な謎めいた美女」だと、途端に珍しくなくなる。その多くはファム・ファタールなどと呼ばれ、男を狂わす魔性の女として描写されるが、主人公を成長させる小道具のように扱われることもある。ここを保守的な性差の価値観と照らし合わせて掘り下げていくと長い話になるので、今回はやめるが。

羽花は中学時代に「石」と呼ばれてイジメられており、高校でも同じ中学の生徒から目をつけられていた。他の生徒もたくさんいる廊下で「焼きそばパン買ってこい」って言われる直接的なイジメ。この状況だとイジメをやっている側が学内で嫌われると思うのだが、他のシーンもこんな感じなので、この作品内世界ではイジメは大衆の前で堂々と行われるものらしい

廊下に座り込んで「ごめんなさい」と呟き続ける羽花。そこに颯爽と現れる界だが、まずは羽花に顔を近づけて「助けて」と言わせた後、イジメてたやつらを蹴散らす。表面的に見れば羽花に対して高圧的と言えなくも無いのだが、界なりの演技として捉えるべきであろう。序盤は羽花に自信をつけさせるのが目的なので、そのための荒療治というか。命令口調で接しないと変わりそうにないからね、羽花。

このあとは界を含むイケてる人たちのコミュニティの一員となり、自信がついて明るくなる羽花。この段階で、イジメの件はほぼどっかにいってしまう。というか、コミュニティ外での描写は無くなる。周囲との関係性によって自己のアイデンティティが決定づけられるのは世の常だが、本作の場合はコミュニティに属した瞬間にその外側は無となってしまうのだ。どこか内側に入り込めば、他者からの視線は無視することができて安全になる。これはコミュ能力至上主義を生きる現代の若者のリアルなのかもしれない。

界の元カノ・芹奈(演・堀田真由)の登場によって、羽花は界に対して恋心があるのだと気づく。そして物語上のターニングポイントとして告白&キスシーンがあり、羽花と界は恋人同士となる。(かなり真っ当な手続きを踏んだ告白だったのが逆に新鮮だった)。そして後半、若者にとっては最小にして最強のコミュニティ「恋人同士の2人だけの世界」に所属して以降は、その内側の描写のみになっていく

恋人の存在がアイデンティティの一部となる構図は、肯定的にせよ否定的にせよ、青春物語では(現実世界でも)ありがちである。ハーレ・クインがジョーカーと別れた瞬間に命を狙われ始めたように(例が間違ってるか?)、こと女性にとっては恋人が誰であるかが重要視される。ただ本作で重要なのは、ここでもやはりコミュニティの外側にアイデンティティが作用することが無い、つまり羽花と界が恋人になることで外野との関係性に変化があるかないかの描写がほとんど無いのである。型通りの「周囲が騒ぎ立てる」シーンは挟まるが、物語上は無関係だ。

羽花の抱える問題や悩み、そして変わりたいという思いは、あくまで自分と界との間に収まっており、常に内向きである。これは悪い意味ではなく、誰と付き合うかですら体面を気にせざるを得ない、どうしようもない現実に対する批判精神とも言えよう。さらに注目すべきは、羽花と同様に界も羽花の存在がアイデンティティとなっており、男女で対等になっている点である

羽花は界に影響されて自分の殻を破るが、同様に界も羽花のために自分の殻を破る。この恋人同士での男女の立ち位置の逆転自体はたまにあるが、大抵は唐突なものになりがちだ。だが本作の場合は界も弱く支えを必要としている存在であると強調されており、男女の力関係に差が無いように細心の注意が図られている。その際には、界を演じるラウールのミステリアスで中性的な存在感が効いている。見た目の上で男女に強弱を感じられないのは、(あくまでフィクション上の表現としてだが)主張の説得には効果的である。羽花が前半、界が後半で「自転車を全速力で漕ぐ」シーンがあるが、ここで筋力差が感じられては、同等の対比とならないのだから。

気になる点を挙げるとすれば、羽花を演じる吉川愛が「自己肯定感が低く地味で暗い女子高生」には全く見えないところか。初対面の人からも地味だ何だと言われているが、吉川愛だぞ。『のぼる小寺さん』の梨乃だぞ。さすがに無理があるだろう。ただこれは少女漫画原作の学園青春モノには常に付きまとう問題ではある。若者向けの青春エンタメ映画なのだから主人公には事務所イチ押しの若手女優をキャスティングするのが当然だが、少女漫画の主人公にありがちな「地味で根暗な女子高生」とは完全にミスマッチになってしまう。この矛盾がクリアされていたのは『L・DK ひとつ屋根の下、「スキ」がふたつ。』の上白石萌音くらいではないだろうか。

なお、前半~中盤で人間関係にスパイスを与える堀田真由の突出した存在感が、良い方向に機能していた(おそらく映画を観た人の多くは、まず最初に堀田真由への称賛を口にするであろう)。善人で周囲に気を遣うタイプだけど、自分の中に確固たる芯も持っている、そんな難しい役柄を見事に演じ切っていたのは素晴らしい。欲を言えば、主人公カップルとは別のサブエピソード、具体的にはあゆみ(演:岡本夏美)と悟(演:坂東龍汰)のエピソードをもう少し目立たせてメインの話と対比させれば、物語に客観的な批評性が発生し、作品はより強固になったかもしれない。

ともあれ、少女漫画の王道フォーマットや定番のシチュエーションを用いながら、普段なら当然のように採用される「女に対して上から目線のオラオラ系の王子様役」を廃して、物語を現代の価値観にアップデートさせているのは、さすがである。あとで知ったが、脚本の吉川菜美『私がモテてどうすんだ』を手掛けた一人だった。なんか納得した。

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