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【邦画】『ヴィレッジ』ネタバレあり感想レビュー--河村光庸プロデューサーの思想を無視してしまうほどに藤井道人監督が囚われていたものとは


監督&脚本:藤井道人
配給:KADOKAWA、スターサンズ/上映時間:120分/公開:2023年4月20日
出演:横浜流星、黒木華、一ノ瀬ワタル、奥平大兼、作間龍斗、淵上泰史、戸田昌宏、矢島健一、杉本哲太、西田尚美、木野花、中村獅童、古田新太

 

注意:文中で終盤の内容に触れていますので、未見の方はネタバレにご注意ください。

 

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組織に君臨するカリスマ的なトップが亡くなった後、その組織がどのように変質するかは、無責任な野次馬からすれば興味を惹かれるところではある。一個人の思想や理念によって形成された組織から、その個人そのものがいなくなる緊急事態を、どうやって乗り切るのか。アニメ『天元突破グレンラガン』のように、逡巡の末に「これからは別の組織になるんだ」と言い切るのが正解のような気もするが、現実世界ではそう簡単には行かないだろう。

昨年6月に河村光庸プロデューサーが亡くなった後の映画会社スターサンズもまた、ジャニーズ事務所や幸福の科学と同様の岐路に立たされている。河村光庸の純粋すぎる反体制バリバリの思想性は、スターサンズの関わってきた映画の内容にも影響を及ぼしているとされており、「スターサンズっぽい映画」という言い回しが成立するほどだ。もっとも、実際はそこまで影響が強いわけでもなく、『宮本から君へ』『愛しのアイリーン』など、むしろ監督の個性が強く出ている作品も多い。河村光庸、言論人としては迂闊な発言が多かったが、プロデューサーとしては現場に口を出すタイプではなく、作家主義、自由主義を貫いていたと聞く。

だが、スターサンズの中でも藤井道人監督作品については、『新聞記者』にせよ『ヤクザと家族』にせよ、河村光庸の政治的な思想性がそのまま臆面も無く反映されているから不思議だ。結果として河村光庸による最後の企画となった本作『ヴィレッジ』も同様である。本作について、河村光庸からは「村人が能面を被った状態で歩く」などいくつかの希望を出されただけで、あとは藤井監督の好きにさせたという。にも関わらず河村光庸の思想性と直結するのであれば、藤井監督は相手の意向をそのまま受け入れて満足させる形にする、つまり「空気を読む力」がずば抜けているのであろう。

舞台は、茅葺屋根の並ぶ山あいの小さな村。主人公の青年・片山優(演:横浜流星)は、村の景観とは不釣り合いな巨大なゴミ処理場で作業員として働いている。優の父親はかつてこの村でゴミ処理場の建設に反対し、その果てに放火自殺していた。いわゆる「閉鎖的なムラ社会」であるため、優は周囲の住人から犯罪者の息子として白い目で見られるも、母親の借金を返すためにゴミ処理場で働く日々を送らざるを得ず、深夜には産業廃棄物の不法投棄を手伝ってヤクザから日銭を貰っている。優の人生は、過去も現在もゴミ処理場によってがんじがらめにされているのだ。

ある日、優の幼馴染の中井美咲(演:黒木華)が、東京から出戻ってきた。ゴミ処理場の広報として就職した美咲は、リサイクルに力を入れているなど環境保護をアピールする企画を立案し、小学生見学会のガイド役に優を指名する。村民からは反対の声が上がるが、村長の大橋修作(演:古田新太)は、「優みたいな人にもチャンスを与えているのだとアピールするため、あえて担当させた」とのたまう。優を顔役としたPR活動は大成功を収め、TV番組で何度も特集が組まれ、村は観光地として繁栄する。

いや、ゴミ処理場ごときで観光客が押し寄せるなんて、フィクションにしても無理があり過ぎるだろってのは当然のツッコミだ。だが本作、能の演目「邯鄲」が主題になっている。「邯鄲」の内容を簡単に言うと(あ、ダジャレのつもりじゃないです)、とんとん拍子に出世して栄華を誇った男の50年が、実は丸ごと一晩の夢だったという話だ。つまり、現実味ゼロの急展開によってつまはじきものだった優が村のヒーローになっていく人生大逆転の展開は、ただの長い夢であると最初から示唆されている。

さて、内在的な抑圧によって成立していた「閉鎖的なムラ社会」の中で、一人だけ特別扱いされるような事態になれば、微妙な匙加減で成り立っていた均衡は綻び始める。優は邯鄲の夢から覚めるのを避けるべく、何とか均衡を保とうと取り繕いを行う。しかし綻びは段々と大きくなり、やがてゴミ処理場に不法投棄された産業廃棄物は世間にバレるし、さらには別のものも掘り起こされる。こうしてゴミ処理場によって得られた邯鄲の夢は、ゴミ処理場によって破滅へと促される。

ほぼ破滅が確定した後の、優と修作が対峙するラスト間際のシーン。修作は、優によって作り出された新たな「閉鎖的なムラ社会」の均衡を死守するため、美咲を犠牲にするべきだと主張する。しかし優には、それは耐えられない。なぜなら、優を邯鄲の夢を見させているのは美咲であり、夢の中にいるためには美咲が絶対に必要であるから。黒木華という配役も相まって、美咲は静謐なファムファタルとして振る舞い、優に邯鄲の夢を見させ、虜にして、狂わせている。

もっとも、美咲も「閉鎖的なムラ社会」から抜け出す希望とは成り得なかった。というより、「閉鎖的なムラ社会」の中で邯鄲の夢を見させるって、つまりは共同体の中に優を縛り付けているってことだろう。ファムファタルらしく絶望を与えているのならば正しい行為だが、全方位から優を共同体の中に縛り付けて逃さんとするこの話の救いようの無さは何を狙っているのか。いくら頑張ったって共同体の同調圧力からは逃れられないから諦めろってことか。

あと、最後に優がするのが、かつての父親がしたのと同じ放火なんだよ。因果は巡るって意図だとは思うが、これ傍目には「犯罪者の子供は同じ犯罪を犯す」という偏見にしか思えない。これもまた、結局は家族という名の共同体による抑圧からは逃れられないという結論になってしまうではないか。藤井監督がどれだけ意識的だったのかは解らないが、本当のリベラルであれば唾棄すべき血縁主義を、疑いも無く信じているかのようである。

何より、村の権力者であった母親という血縁に囚われ議員に頭を下げ続けた修作もまた「閉鎖的なムラ社会」の抑圧に屈してきた被害者なのであり、その哀愁は何度も直接的に描写されている。そんな修作を殺して家を燃やしたからって、「閉鎖的なムラ社会」との決別にはならないだろう。優が邯鄲の夢から醒めて真の意味で「閉鎖的なムラ社会」から抜け出そうとするのであれば、本当に破壊すべきはアレしかない。優の父親を犯罪者にさせ、優をこの地から出られなくするよう縛り付け、あるいは邯鄲の夢を見させ、そして破滅へと誘い込んだ、あの建物。

そう、河村光庸が藤井監督に出した指示の一つが「最後にゴミ処理場を爆破する」なのである。 藤井監督は「さすがに実現しませんでしたが」と述べているが、技術的にはCGを使えばいいだけだし(ゴミ処理場の外観自体がCGっぽいし)、脚本だってラストを少しいじるだけでよい。高橋伴明監督にできることが、なぜできない?

「空気を読む力」って、つまりは共同体の中での同調圧力と同じものであろう。藤井監督が河村光庸の想いに逆らってでもゴミ処理場を爆破できなかったのは、自身にとってのアイデンティティである「空気を読む力」を否定できなかったからではないだろうか。共同体の抑圧に囚われているのは藤井監督その人なのかもしれない。

パンフレットに掲載されているインタビューの中で、藤井監督は「必死にスターサンズというブランドを守りたい」と述べている。藤井監督の「空気を読む力」をもってすれば、河村光庸の思想をそのままスターサンズに残すのも可能であろう。だがその「空気を読む力」を行使することは、共同体における抑圧を拒絶する河村光庸の思想性を否定することにもなってしまう。もしも本当に河村光庸の思想を受け継ぐならば、真にすべきはスターサンズから河村光庸の思想を排除して、小さな共同体の均衡を一度完全に破壊することではないだろうか。それによって、ゴミ処理場を爆破できなかった藤井監督の面目躍如となるはずだ。

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