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【邦画】『REVOLUTION+1』ネタバレあり感想レビュー--この映画についてのみ、山上徹也容疑者は足立正生監督の内輪ノリに利用された被害者である


監督:足立正生/脚本:井上淳一、足立正生
配給:太秦/上映時間:75分/公開:2022年12月24日
出演:タモト清嵐、岩崎聡子、高橋雄祐、紫木風太、前迫莉亜、森山みつき、イザベル矢野、木村知貴

 

注意:文中で映画の内容に触れていますので、未見の方はネタバレにご注意ください。

 

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まず大前提として、本作『REVOLUTION+1』が撮られた一番の目的は、山上徹也容疑者による安倍晋三元首相銃撃事件の映画を制作して上映するという既成事実のためである。その第一目的からすれば映画の内容は二の次であり、その意味では、東京のミニシアターで1週間だけ公開されるような数多の「関係者だけが盛り上がっていて、他は誰も知らないし観ていない邦画」と同じカテゴリに属している。

内容が二の次というスタンスなのだから、映画の出来に対してあれこれ言うことすら無意味だ。実際のところ、製作費700万円をどこに使ったんだと疑問になるほどの、学生による自主制作映画でも今どき有り得ないレベルの完成度の低さではある、だがこれも、「安倍晋三の国葬儀と同じ日に(特別版を)公開する」という目的が先にあるため、速攻で撮影して編集しなくてはならず、そのため完成度が低くなるのは仕方ないという言い訳も、一応は理屈が通ってしまう。そういう事情もあり、映画としての出来については触れることを控える。

足立正生監督による舞台挨拶付きの上映会で鑑賞した。足立監督は、「山上君(君づけで呼んでいた)が何を思っていたかを知りたい」と述べ、本作については何度も「政治的な映画」と表していた。しかし、山上容疑者の内面に迫った物語は、はたして政治的なのか。本作における最大の矛盾が、ここにある。

山上容疑者の殺人行為は、旧統一教会によって家庭を壊されたという、きわめて個人的な私怨が発端である。あくまで恨みの相手は旧統一教会であり、元々は韓鶴子を標的としていたが、コロナ禍で来日しなくなったなどの理由で暗殺が難しくなり、教団と関係が深いと思われる安倍晋三に急遽狙いを変えた。この経緯は、事件後の早い時期に山上容疑者が供述している。身も蓋もないことを言ってしまえば、安倍晋三が殺されたのは、とばっちりに近い。

もちろん、山上容疑者が手製銃を作ってぶっ放すほどに追い込まれた背景には、政治的な問題が横たわっている。だがそれを描くためには、山上容疑者の置かれた状況を客観的に引いた視点で捉えなくてはいけない。本作に、主人公(山上容疑者がモデル)を冷静に見つめる他者の視点が存在したか。あるいは、主人公をロングで捉えた印象的なショットがあったか。ただただ個人的な恨みで動いていた山上容疑者に同化して内面を追い求めるだけであれば、それは政治的でも何でもなく、極めて私的な物語にしかならない。

そこで足立監督は、客観的な事実を無視してまでも、主人公を「政治的」に変貌させるという禁じ手を用いている。名前を「川上達也」と変えるのは諸事情があるからだろうが、韓鶴子とともに安倍晋三も最初から暗殺のターゲットへと変えてしまっているのだ。自宅アパートの壁には安倍晋三の子供時代から現在に至るまでの写真がベタベタ貼っているし、試し撃ちの際にも安倍晋三の写真を狙っている。これではもはや、主人公のモデルは山上容疑者ではなく足立監督自身ではないか。

足立監督にとっては、日本の中枢に蔓延る保守の象徴である安倍晋三を襲撃するのは、至極当然の思想ではあろう。その点で山上容疑者にシンパシーを感じたのかもしれないが、実際には山上容疑者の内面をいくら深掘りしたって、足立監督の思う「政治的」なものは存在しない。だが、だからといって山上容疑者に自分自身を憑依させてしまうのは、こちらは間違っていないという単なる自意識過剰な思い込みだ。そんな身勝手な行為で内面を書き換えられた山上容疑者は、こと本作についてのみなら被害者ですらある。

要するに、ただの内輪ノリであろう。そもそもが「関係者だけが盛り上がっていて、他は誰も知らないし観ていない邦画」なのだから内輪ノリなのは自明ではあるのだが。足立監督は本作の公開について抗議がほとんどないことを残念だとか言っていたが、それも当然である。内輪ノリに対して外野があれこれ言ったって、言うほうが損するだけだし。

最後に。本作における完全なフィクション部分で目立つのは、主人公と巡り合う女性の存在である。主人公が自殺未遂して入院した際に出会う同じく宗教2世の美少女と、親が革命家だというアパートの隣人という2人の女性が登場する。これがまあどちらも、主人公の全てを理解して寄り添おうとする、男にとって都合の良い聖母のような存在なのである。それと、銃撃後の兄の意思を継ぐかのように描写されていた妹も(容疑者の家族というだけで事件とは無関係である実在の一般人をモデルにする非常識さを置いておくにしても)、どうかと思うし。

それにしても、「女は闘う男の全てを受け入れる母なる存在であるべきだ」と性差による役割を押し付けるのって、自民党の保守系議員の思想そのものなんだけど。さらには、(疑似的なものを含めた)「家族の絆」に絶対的な意味を見出すのは、日本赤軍のメンタリティかもしれないけど、同時に旧統一教会の教義とも重なってくるし。ねえ、いいの? 本当にそれでいいの?
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