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【邦画】『真夜中乙女戦争』ネタバレ感想レビュー--『ファイト・クラブ』から現実社会そのものを省く、内省的にもほどがある二宮健監督の作家性

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監督&脚本:二宮健/原作:F
配給:KADOKAWA/上映時間:113分/公開:2022年1月21日
出演:永瀬廉、池田エライザ、篠原悠伸、安藤彰則、山口まゆ、佐野晶哉、成河、渡辺真起子、柄本佑、小島健

 

注意:文中で終盤の展開に触れていますので、未見の方はネタバレにご注意ください。あと、『ファイト・クラブ』のネタバレもしてます。

 

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指摘するのすら恥ずかしくなるくらい、『ファイト・クラブ』である。本作『真夜中乙女戦争』を鑑賞後、改めて『ファイト・クラブ』を観返してみたのだが、オマージュなんてレベルでは済まされない露骨な真似事が多くて驚いた。原作小説がそうだから、という言い訳は通用しない。主人公とヒロインが密談している店の客もスタッフも秘密組織のメンバーだったという『ファイト・クラブ』そのままのシーン、原作には無いからね。

大学一年生の「私」(演:永瀬廉)は、学費に見合った講義をしてくれないと教授に突っかかってお茶をぶっかけられるなど、鬱屈した大学生活を送っていた。そんな折、喫煙所爆発事件を起こしている「黒服」(演:柄本佑)をたまたま目撃し、逃走を手助けしたために意気投合する。映画館に改造された廃ビルの一室を拠点として、当初は自転車のサドルをブロッコリーにすり替えるなどどうしようもない悪戯を仕掛けていたが、やがて同志を募り組織化し、それとともに悪戯も過激になり、東京中の高層ビルを爆破する計画に至る。

はい、話の骨格は誰がどう見ても『ファイト・クラブ』ですね。こうなれば、元ネタとの相違を対比することで、本作のオリジナル性を追究せねばならない。殴り合いが映画鑑賞に変わったとかの具体的な細部ではなく、もっと本質の部分で。一番大きい変更点は「黒服」、つまり『ファイト・クラブ』におけるタイラー(演:ブラット・ピット)の正体であろう。今どきネタバレにもならないから言ってしまうと、元ネタのタイラーは主人公の二重人格である。しかし本作の場合、そこは明確には示されない。

いや、序盤のボーリング場のシーンで、第三者が「私」と「黒服」の双方を認識しているのだ。この時点で、二重人格説は相当に分が悪い(ちなみに、原作での該当シーンには「黒服」は登場しない)。どうだろう、タイラーが二重人格ではなく他人だと先に示される『ファイト・クラブ』って、それ面白いのか。これでは、主人公の責任が希薄になってしまう。「私」自身は、強大化してコントロールの利かなくなったテロ組織に対して自己責任に陥っているが、傍から見れば「黒服」に良いように弄ばれているだけのマヌケだ。

二宮健監督と言えば、『チワワちゃん』の高評価が真っ先に挙げられるが、本作を語る上では商業デビュー作『THE LIMIT OF SLEEPING BEAUTY』が重要であろう。簡単に言えば、30歳の売れない女優の脳内妄想がポップでサイケディックな映像表現によって延々と流される話である。極めて内省的であり、主人公の膨大なモノローグで構成される小説『真夜中乙女戦争』とも通じている。

しかし二宮監督は、原作よりもさらにはっきりと、「黒服」は二重人格ではなく他人だと序盤で明示してしまったのた。これでは、内省的な主題はブレてしまうではないか。いや、そうではない。実は、ボーリング場のシーンを以てしても「私」と「黒服」を同一人物と結論付ける方策がある。その2人を別個に認識していた第三者さえも、「私」の一部とすればいいのだ。それはつまり、劇中の世界が全て「私」の脳内で起きている妄想でしかないということだ。そう判断するための根拠はいくつかある。

ひとつは、冒頭すぐの「ちなみにこの映画は、あと110分で終わる」という「私」のナレーション。これが映画という名の作り話だと「私」自ら認めている。もうひとつはラスト、件の第三者に「こうではない世界があったかもしれない」と、「黒服」との出会いを違ったものにするIFのシーンが短く流れるが、そこでは皆がマスクをしている。明らかに、IFの世界が現実の世界だ。それはつまり、劇中で現実とされている世界のほうが妄想であると言っているに等しい。

紹介が遅れたが、先ほどから何度も出てくる第三者とは、「私」の大学の先輩であり恋愛感情を抱いている「先輩」(演:池田エライザ)である。『ファイト・クラブ』でのマーラ(演:ヘレナ・ボナム・カーター)に当たるポジションだが、マーラはあくまで主体性がある"他人"だったのに対し、「先輩」は社会への帰属を良しとして「黒服」と対立する存在、かつ「私」を指南する母的存在として、なんだか都合のいい女にされていた。まあ、すべては「私」の妄想だとすれば、それも当然か。

ともあれ、『ファイト・クラブ』そっくりに、ビルが爆破されては崩れ落ちていく(つまり脳内の世界が壊れていく)様子をバックにしながら、結局は脳内妄想の女から「生きているだけで良しとする」と認められて、それで全てOKとしている。妄想を破壊せんと脳内で暴れ回ってもなお、結局は妄想の中で許しを得る『THE LIMIT OF SLEEPING BEAUTY』と非常に似ている。

妄想の中での悲劇が妄想の中での人物に救われるって、内省的にもほどがあるが、それが二宮監督の作家性なのだろう。しかし、主人公の妄想が現実社会に影響を及ぼし続けている『ファイト・クラブ』から、現実社会そのものの要素を除去した作品なんて、何ら刺激が無くて無味乾燥になってしまうのも当然である。
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