ヤガンEX

映画とか漫画とか似顔絵とか

【邦画】『今夜、世界からこの恋が消えても』ネタバレ感想レビュー--純愛とホラーは紙一重であるという、またいつもの結論


監督:三木孝浩/脚本:月川翔、松本花奈/原作:一条岬
配給:東宝/上映時間:121分/公開:2022年7月29日
出演:道枝駿佑、福本莉子、古川琴音、前田航基、西垣匠、松本穂香、野間口徹、野波麻帆、水野真紀、萩原聖人

 

注意:文中で終盤の展開に軽く触れていますので、未見の方はネタバレにご注意ください。

 

スポンサードリンク
 

 

若者の恋愛模様にSF的な要素をひとつ加えて化学反応を与え、新しい発見ができないか試みる。三木孝浩監督作品に散見される、まあいつものパターンである。今回は、交通事故に遭って以降「一度眠ると、事故から後の記憶が全て消えてしまう」というSF的には非常に都合の良い記憶障害を持つ女子高校生がヒロインとなっている。

同じく三木作品の『僕は明日、昨日の君とデートする』とか、中村倫也主演の『水曜日が消えた』とか、1日単位で記憶の改変(『僕は明日~』は厳密には違うのだが)が起こるSF設定は昔からある。実写映画『ホリック xxxHORIC』の後半のようなタイムリープものを含め、1日単位で何かが起こるSFに共通する疑問として「もしも一晩寝なかったら、どうなるんだ?」というのがある。まあ、普通は序盤で説明がなされるわけだけれど、本作の場合は1日単位ではなく「寝たら記憶が消える」なので、かなり飲み込みやすい。実は一番感心したのもここだったりする。

 


高校3年生の日野真織(演:福本莉子)は、前述した記憶障害を患っている。だがその件は、両親以外では学校と事故前からの親友である綿矢泉(演:古川琴音)にしか知らされていない。なぜなら他者に記憶障害を悪用されないためであると説明される(たしかに、色々とあくどい利用法が思い浮かぶ)。本作、一応は無理筋な設定に合理的な理由付けをしようとしている箇所がいくつかあり、そこは好感を持てる。まあ、教員だって何しでかすか解らないので、学校に伝えるのも危険だと思うけど。まず、どうせ全て忘れるのに学校に行って勉強を受ける意味あるのか。

真織は朝起きると部屋の張り紙で自分の記憶障害の件を知り、事故後に毎日つけている日記を読んで記憶の無い部分を補っている。最終的に3年この生活を続けているので、日記を読むだけで1日が終わるんじゃないかと思うのだが。まあ、家に閉じ籠ったままでは物語が始まらないので、この辺の嘘は無理してでも飲み込むしかない。

さて、どういう学校生活を送っているのか不明(絶対に周囲から変人扱いされてるはず)だが、真織は同級生の神谷透(演:道枝駿佑)から唐突に告白される。それは事情があって(しかしこの件、前フリっぽいものあったのに放ったらかしだな)のことだと後で説明を受けるが、真織は付き合うふりをしようと提案し、偽りの恋人関係が成立する。

休日に手作り弁当を持って砂浜にデートしに行っているのでどこが偽りなんだか解らないが、その際に透が記憶障害のことを知り、でも自分が知ってしまったことを日記には書き残さないよう真織に頼む。その後の展開では、親友の泉が2人それぞれの状況をどこまで把握しているかも、物語の段階ごとに変わる。各々の人物について、「記憶障害を知っている」「記憶障害を知っていることを知られている」といった立ち位置が頻繁に変化していくのだ。

そうした立ち位置の変化と並行して、映画の視点人物も何度も切り替わるので、飽きさせない作りになっている。そんな物語の根底では、「こう仮定した時、どう結論が起こるか」というような、ある種のSF的な思考実験が(薄くではあるが)常に繰り広げられている。これらはおそらく原作に加えて月川翔松本花奈という信頼できる2人の脚本によるものだろう。だが同時に、若者の純愛映画という本作最大の特性が、そのSF的な思考実験にブレーキをかけてしまうのが勿体ない。

それというのも、この映画、ほぼ真織と透の2人だけの世界しか描写していない。純愛映画としては「周囲のことなんてどうでもいい」は正攻法であるのだが、SFとしては世界を狭めるのは思考の放棄であり、逃げである。どう考えたって支障が出ているであろう真織の学校生活については全く触れられないし、サブストーリーである透の家庭の件は真織とは直接に絡んでこない。小説家志望の父の知らぬところで姉が実は芥川賞を受賞していて仲違いが起こるのだが、いくらなんでも真織の記憶障害とは無関係過ぎる。

もっとも、勉学と同じく読書もまた、記憶を保てない真織にとっては無意味で虚しい行為のはずである。図書館で透にお薦めの本を訪ねているときとか、どういう気持ちだったのだろうか。小説なるものに対して忸怩たる思いを持っていてもおかしくない。もしかしたら、透の家族に小説家を入れることで、記憶を保てない真織特有の葛藤を表現する意図も、原作にはあるのかもしれない。原作は未読なので想像だが。


本作のアバンタイトルは、真織は既に高校を卒業している「事故から3年後」から始まる。その時点で真織には透の記憶が無く、スケッチブックには見知らぬ男の絵がいくつも描かれていて不思議に思っている。そして真織と透と付き合っている「事故が起きてから約半年の期間」に当たる本編の最中に何度か、泉が自宅で真織の日記を読んでいる「3年後」の短いシーンが挟まれる。おそらく泉主導により日記がすり替えられていて真織の記憶から透が消されていることは冒頭から観客に明かされているのだ。泉を演じる古川琴音の妙な怪しさも相まって、嫌な想像ばかりが働く。

だが、さもおどろおどろしく想像される記憶の改竄は、結局は周囲の善意のみによるものであったと簡単に明かされる。しかも泉はすぐに罪の意識に苛まれて、さっさと真織に真実を伝える。記憶の改竄をメインに話を膨らませればいくらでも面白くなるし、人間の悪意の先まで掘り起こせるところだが、はるか手前でその辺の思考実験は中断してしまう。なんだか急に日和ったように感じたが、幅広い大衆受けが使命であるシネコン映画ではこれが限界かもしれない。ただ、そのせいで急に登場人物が機械的に動かされているようになっていたのがなあ。

それでも恐怖シーンは残されていて、日記から透の記述を消された真織は、なぜか解らないけれど謎の男の絵を何枚も何枚も描き続けていたのだ。部屋中に飾られている無数の透の顔の画。「記憶から消えても心には残っている」という美しい純愛ゆえの行動のつもりだと思われるが、傍から見ればどうしたってホラーだ。純粋すぎる恋愛感情は第三者からすればホラーに見えてしまう、そんないつもの結論は今回も刻印されていた。
-----

 

【お知らせ】

邦画レビュー本「邦画の値打ち」シリーズなどの同人誌を通販しています。

yagan.base.shop

-----

 

スポンサードリンク