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【邦画】『カラダ探し』感想レビュー--青春キラキラ映画は多ジャンルに擬態して生き残りを図るが、しかしこのラストでは・・・


監督:羽角英一郎/脚本:土城温美/原作:ウェルザード
配給:ワーナー・ブラザーズ映画/上映時間:102分/公開:2022年10月14日
出演:橋本環奈、眞栄田郷敦、山本舞香、神尾楓珠、醍醐虎汰朗、横田真悠、柳俊太郎、西田尚美、柄本佑

 

注意:文中でラストの展開に触れていますので、未見の方はネタバレにご注意ください。

 

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映画『カラダ探し』に対してSF設定へのツッコミを入れる行為の無意味さは、充分に理解している。そんなことは誰も求めていないのは重々承知だ。それでも本作に関しては、そのツッコまれポイントに類似作品とは違うオリジナリティがあるので、文章の前半を用いて指摘してみようと思う。そして後半で、なぜSF設定のツッコミが無意味であるかを考察してみた。結論を先に言うと、これはSFでもホラーでもないからだが。

 

高校生の森崎明日香(演:橋本環奈)は、学校ではクラス中からハブられ、いつもぼっち。とある火曜日もいつもと同じ日常をひとりで過ごしたが、自宅のベットに入り夜12時になった途端に、学校横の閉鎖された礼拝堂に転移させられてしまう。そこには中身が空の棺桶と、同じく状況の解っていない他のクラスメイト5人がいた。とりあえず帰宅しようとするも単独行動をした1人目を皮切りに、全身血まみれの少女(赤い人)に次々と殺されてしまう一同(0ターン目)。そして明日香も殺され、気づくと自宅のベッドで朝を迎える。怖い夢かと思っていたが、その日は前日と同じ火曜日であった。

「カラダ探し」という都市伝説を前から知っていたメンバーからの説明で、夜の校舎に隠された少女のカラダのパーツを探し出して棺桶に収めればループから抜け出せると全員が瞬時に理解。2ターン目では右手を見つけ、その後は昼の間に計画を練って夜は効率よくパーツを見つけては殺される、というループを繰り返していく。だが、ある一件を境に、タイムループに異変が起き始め・・・

つまりこれ、同じ一日を繰り返すタイムループものであると同時に、夜12時になると赤い人の存在する別世界に飛ばされる異世界転移ものでもあるらしいのだ。「らしいのだ」と断言を避けているのは、本当に夜のパートが別世界なのか確定できないから。この人たち、昼間の礼拝堂に行って棺桶があるか確かめるとかしてくれないんだもん。まあでも、昼間の校舎にカラダのパーツがあるとは思えないので、おそらく別世界ではあるのだろう。

別世界だとしても不明な点があり、昼の校舎や礼拝堂に何か変更をかけると、夜のほうにも反映されているのだろうか。たとえば劇中では人数分のトランシーバーを用意していたが、あれは昼の時点で礼拝堂に置いておけば夜の時にもその場にあるのか? 実は本作、タイムループを示すうえでの重要シーンのひとつである「夜12時に礼拝堂に飛ばされる場面」が数回しかない。1ターン目(2回目)ですら省略されているのだ。そこで各人の表情を入れる演出だけでも世界観に深みが出るのに、なんか勿体ない。

さらに、この話では絶対に必要な「最初にカラダのパーツを棺桶に入れた、その次のターンでの夜12時の礼拝堂」のシーンが無い。たぶん、その次のターンでは、前回見つけたパーツが既に棺桶に入っているはずだと思われるのだが。でなければ、毎ターン同じパーツを取りに行かなくてはいけないが、そんな様子は無いので。それにしたって、こんな重要シーンを省略するのは、最低限のルールすら観客に理解させる気が無いのだろう。

お気づきだろうか。SF設定にツッコミを入れると宣言しておきながら、「おそらく」とか「たぶん」とか、曖昧な文章にして結論を避けているのを。というのも、先ほどから述べている夜12時のシーンを省略するように、本作はSF設定を考察できるほどの情報を観客に与えてくれないのである。そのため、まず前提となるルールの理解ができず、矛盾を指摘してツッコミを入れるという段階まで到達できないのだ。それこそが、本作『カラダ探し』をSFとして捉えた場合の最大のオリジナリティかもしれない。

※ それでも確実にツッコミを入れられる点をひとつだけ。効率的にカラダのパーツを探すため、昼のパートでは手描きによる校舎の地図を作って既に捜索した個所を塗りつぶす作業をしている。でもさあ、時間は巻き戻っているのだから、その地図は毎ターンごとに一から作らなくてはいけないのではないか。なぜその地図だけはタイムループに影響されていないのか謎である。

さて、そんなこんなでSF設定におけるルールの説明すらおざなりな本作。ハッキリ言って、これはもうSFではないし、次段以降で理由を述べるがホラーでもない。ではジャンルは何かと言うと、完全に青春キラキラ映画なんである。一時は邦画界で隆盛を極めていたが最近では数もめっきり減って廃れつつあるジャンルが、まさか『カラダ探し』で愚直に採用されているとは。

SFホラーっぽいお膳立てで青春キラキラ映画を成立させるために、なかなか強引なことをしている。とにかく衝撃なのだが、何度も同じ一日を繰り返す恐怖、そして残忍に殺されることが既に確定している恐怖が、本作からはほぼオミットされているのだ。なんせ、「私、すぐ殺されちゃってー」という能天気なセリフが出てくるのは、たしか2ターン目(3回目)の後なのだから。そんな『ハッピー・デス・デイ』の域に辿り着くには早すぎるだろう。

キラキラ映画である以上、友情や恋愛といった他者とのコミュニケーションが全てにおいて優先される。タイムループは、それまで交流の途絶えていた6人が親密になっていくのに必要な時間として消費されていくために存在し、恐怖を産むための装置ではない。そのため、自分が助かるために一人を見捨てて防火シャッターを下げるとか、一人だけカラダ探しに全く協力しないとか、ホラーでありがちな仲たがいが発生しそうな布石も、彼らは何が何でも親密にならなければならないという見えざる力によって、ほぼ無視される。本作にとって、タイムループの根源にある恐怖や、人間心理からくるトラブルなどは邪魔であり、ゆえにホラーであっては困るのだ。

そもそも、この6人が選ばれたのが、いずれも孤独を抱えていたからと推測されるのである。で、ループを繰り返す中で一緒にカフェに行ったり砂浜で夕日を眺めたりして、そうやって皆で仲良くなって孤独から解放されることこそが人間的な成長であるとする。そんな今では懐疑的とすら言える価値観が真正面から肯定されるのだ。

SFホラー設定を拝借するという超変化球を用いてでもコミュ力至上主義を肯定しようとするのは、コミュ力にしか自己を保てる拠り所が無い人が少なからずいて、それゆえ需要はあるからなのだろうか。そういう人たちを肯定するために、世間的にはウケなくなってきたキラキラ映画を、パッと見には解らない形で制作するのも、まあアリなのかもしれない。

しかし本作、最後の最後にとんでもないことをやってのける。通常、タイムループもののラストは、最後のターンでループを抜けて未来へと進む、つまり最終ターンが正史となるパターンが大多数である。だが本作の場合、タイムループを抜けると、ただの日常であった0ターン目が正史となるのである。そのため、ループを繰り返す中で親密になっていった6人の関係も、元に戻ってしまう。

今年公開の邦画では他にも、0ターン目が正史となるタイムループものがあったのだが、これはまだ主人公にタイムループの記憶が残っていたため、内面的な成長という点においては物語の前と後で変化があった。しかし本作は、全員からタイムループの記憶が消されている。映画の大半を使って描かれていた、各人が孤独から抜け出して友情を育み成長していく過程が丸々無かったことにされるのだ

これ、物語の展開としては酷すぎるだろう。一応、小さな救いをエンドロール前のラストカットに込めていたが、それだけでは長尺の物語に対しては微小すぎてどうにも。本作に救いを得ていたであろうコミュ力が拠り所の人々も、急に全ては無意味でしたと突き放されては、呆然とするしかない。その非道な行いこそが、本作最大のホラー演出であると言ってもいい。
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