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【邦画】『FUNNY BUNNY』ネタバレあり感想レビュー--中川大志が純真熱血ヤンキー口調でクドクドと話を説明するだけでは退屈極まりない

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監督&脚本&原作:飯塚健
配給:「FUNNY BUNNY」製作委員会/上映時間:103分/公開:2021年4月29日
出演:中川大志、岡山天音、関めぐみ、レイニ、森田想、ゆうたろう、田中俊介、佐野弘樹、山中聡、落合モトキ、角田晃広、菅原大吉

 

注意:文中で終盤の展開に触れていますので、未見の方はネタバレにご注意ください。

 

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飯塚健監督は、中村光の傑作漫画『荒川アンダーザブリッジ』をものの見事に残念な実写映画にした人物として、個人的に許せないリストの上位に記録されている。原作漫画の持つ本質を無視してコケにした度合いであれば、『進撃の巨人』よりも『鋼の錬金術師』よりも『荒川アンダーザブリッジ』のほうが断然上だ。さらには、『荒川アンダーザブリッジ』にチョイ役で出演した割には妙な艶っぽさを印象に残した井上和香と、映画公開後すぐに結婚した人物でもある。映画監督と作品の出演者の夫婦なんて珍しくもないが、先人たちと比べると俗っぽさが際立つ。

そんなわけで、飯塚監督の最新作『FUNNY BUNNY』も相当な色眼鏡で観たことは否めない。でもこれ、そういう負の感情を持ち出す以前に、ひとつの商品として成り立っていなくないか? 飯塚監督によって2012年に上演された舞台劇を自ら映画化した作品だが、いつものように「演劇なら成立する虚構性も映像化したら不自然になってしまう」と評することすら憚られる。舞台劇だとしても、これはダメであろう。

自称小説家の剣持聡(演:中川大志)は、親友の漆原聡(演:岡山天音)とともにウサギの着ぐるみの頭を被り、閉館間際の世田谷区立図書館を襲撃する。貸出カウンターにいた司書の服部茜(演:関めぐみ)と来館者の新見靖(演:レイニ)を拘束したあと、館内の本を片っ端からめくりだす。剣持がとある人物から「図書館にある絶対に借りられない本に宝を隠した」と聞いたので、一晩かけて探すつもりなのだ。

都心の巨大な図書館なのに、閉館間際とはいえ司書がひとりだけでスタッフが他にいないのは不自然であるし、夜間に警備員が中を見回らないのもおかしい。だがそれ以上に、図書館から「絶対に借りられない本」を探そうとして、棚にある開架図書ばかり調べるのはどうなのか。貸出不可の本なんて、書庫にいくらでもあるだろうに。図書館を何かしらのメタファー空間として扱っていれば、そういう矛盾点は解消できるかもしれないが、オチが判明しても舞台が図書館であることには何の意味も無かった。

まあ、「図書館を襲撃する」って行為に露骨な村上春樹の影響を感じるわけだが、結局はファッションとして表面的に採用しているだけなのだろう。なので、図書館のシステムとかにまで気を配るつもりがさらさらなく、ろくに図書館を利用したことすら無いんじゃないかと思ってしまうほどの無知振りばかりが際立っている。現実の図書館をロケ地にするのなら、最低限のリアリズムは必要なはずなのに。

こっそり残っていた来館者・遠藤葵(演:森田想)によって助けられた服部と新見。逆に剣持と漆原を追い詰め、なぜこんなことをしているのかと問い詰める。すると剣持による長い長い回想が始まる。高校時代の親友・田所(演:ゆうたろう)が、実はイジメに合っていて、ついには頭を殴られて殺されてしまう。これがまた、類型的なイジメの内容を中川大志が純真熱血ヤンキー口調で熱く語り続けるのみなので、とにかく辟易する。今どき、こんな演出で人の心を動かせると本気で思っているのか。

しかし、ずっと冷めている様子だった服部までもが剣持のパッションにほだされて、全員で「絶対に借りられない本」を探すことになる。上巻が無い下巻だけの本なら誰も借りないんじゃないかと当たりをつけるのだが、「下巻だけの本」が山積みになるほど図書館に存在するのが異常。世田谷のメイン図書館なのだから、もうちょっと在庫管理をちゃんとしてほしい(あと、上巻は貸出中かもしれないとは考えないのか)。で、けっこう話が進んだこの辺りで、重大なことに気づくのである。

まさか、「絶対に借りられない本」って、「借りることができない本」じゃなくて、「借りることはできるけど、誰も借りようとしない本」のことなのか? 下巻だけの本から探す彼らの行動から判断するに、そうとしか思えない。「借りられない」の「られ」は、可能じゃなくて受動の意味なのか。まあ、劇中でも「絶対に借りられない本」は伝聞による言葉しかないので、どうとでも取れるのだが。

でもさあ、先にオチを言っちゃうけど、「絶対に借りられない本」って、宝を隠した人物が図書館の棚の上にこっそりと置いておいた本だったんだよ。図書館の所有する本ではないのなら、それは「借りることができない本」じゃないか。その点には一切触れられず、全ページを接着剤でくっつけて開かないし、しかもすごく重いから「絶対に借りられない本」だって結論みたいになっていたが、だとしたら「誰も借りようとしない本」ってことか。「絶対に借りられない本」の意味、結局どっちなのか解らずじまい。たぶん、飯塚監督は意味が2つ取れることに気づいてないのだろうけど。

おそらくこの作品、剣持を曲がったことが大嫌いな純真熱血ヤンキーキャラ、漆原を達観したクールキャラと正反対のコンビにして、周囲の人物たちとの絶妙な掛け合いを売りにしているのだと思う。いわゆる"オフビートな笑い"ってやつで、『榎田貿易堂』でも見られる通り、飯塚監督は得意技のつもりなのだろう。それにしても、「淡々とした掛け合いの最後に冷静な一言で的を射たツッコミを入れて笑いにする」みたいなの、別に珍しくも何ともないからね。相当な笑いのセンスによるクオリティが無ければ、「ああ、よくあるやつか」で流されるだけなのに。

で、「絶対に借りられない本」が見つかって、無理やり感動的な雰囲気にして、舞台が4年後になったところで、まだ映画は半分しか終わってないんだよ。ここからまた、まったく別の話が始まるんだよ。シナリオの構成が完全に破綻している。なんでこんな謎の二部構成で問題ないと思ったんだろう。

その後半だが、手垢のべっとりついた凡庸な話で、それを中川大志が純真熱血ヤンキー口調でクドクドと熱く語って説明するのみで、しかもほとんどのシーンで岡山天音は一緒じゃないのでクールなツッコミも存在せず肝心の"オフビートな笑い"まで放棄されている状態で、端的に言って退屈極まりない。メンバーが事故で死んだ元ミュージシャンの話なんて過去に何百とあるのだから、少しもオリジナリティが無ければ、それを見させられるほうは拷問でしかない。あと、散り散りになっていたバンドの元メンバーを集結させておいて、演奏するのは一人だけって、どういうこと?

なお、飯塚監督は現在公開延期中の『ヒノマルソウル』の監督でもあるのだが、本作を観たせいで元から少なかった期待値が限りなくゼロに近づいてしまったのであった。
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