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【映画駄話】なぜ映画館では静かにしないといけないのか?

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少し前にUPした当ブログの映画レビューにて、締めとして映画館での周囲の観客のマナーがあまり気にならないと書いた。今回は、最大のマナーとして当たり前のように君臨する「なぜ映画館では静かにしないといけないのか?」について、考えてみた。まあ、ダラダラと書き殴っただけなので、適当に読み流してください。

※ 前回の映画駄話

yagan.hatenablog.com

 

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加藤幹郎『映画館と観客の文化史』(中公新書)という本がある。アメリカと日本における映画館の歴史を体系的に述べた著書で、Wikipediaの「映画館」の項目では重要な引用元となっている(というより、約7割はこの本の引用なのだが、Wikipedia的には大丈夫なのだろうか?)。映画館の観客に厳粛性が求められる経緯について、アメリカについてのみだが、本書を参考にしてまとめてみた。

世界初の常設映画館は1905年にニュージャージー州で誕生したニッケルオデオンとされている。ニッケルオデオンは、5年後の1910年には全米で一万館以上が設置され、一大娯楽施設となった。客層は多岐にわたるが、特に多かったのはヨーロッパから大量に集めた新移民であった。上映する映画の半分はヨーロッパから輸入してきた作品であり、新移民は母国の情景を懐かしむと同時に、字幕付きのスライドよって英語を学んでいたという。

ニッケルオデオンでは既に「おしゃべりはおやめください」という現在と同じ注意喚起がなされていた。ということはつまり、注意しなければいけないくらい煩かったわけである。当時はサイレント映画なので、上映時や幕間に歌手が歌ったりピアノ演奏がなされたりして、それに合わせて観客も歌っていたり口笛を鳴らしていた。安価な娯楽(ニッケルとは5セント硬貨のこと)に集う新移民(多くが労働者階級)にとって、映画館で大きな音を立てるのは、むしろ当たり前の感覚であった。

ニッケルオデオンは10年ほどで廃れ、代わりに登場したのがピクチュア・パレスであり、1915年あたりから20年代にブームとなった。ピクチュア・パレスとは、バロックやアールデコなどの古い建築様式や非ヨーロッパ建築の意匠を取り入れてゴテゴテに飾り立てた映画館であり、現在でも残っているチャイニーズシアターが代表的なところである。値段もニッケルオデオンの数十倍で、観客は中産階級のWASPに限られた。紳士なドアマンに案内されて豪華絢爛な非日常空間に入ってしまえば、元々が中産階級のモラルを備え持つ観客は、俗世間から切り離された体験を全うするために場の空気を読んで自然と静粛を保つようになった。現在でいう、着飾ってクラシックを聴きに行くのと同じような感じだったのだろう。

このように、ピクチュア・パレスによって現在にも通じる映画館の静粛性が誕生したかに思えるが、ことはそう単純にいかない。詳細は省くが1930年代には上映中でも観客が自由に出入りするのが一般的になり、またもや静粛性は失われる。そして1933年、映画館の歴史にとって最重要な存在ことドライブ・イン・シアターが誕生する。もっとも、流行するのは第二次世界大戦後の1950年代半ばであるが。

ドライブ・イン・シアターとは、御存じの通り駐車場で車に乗ったまま映画を観る施設である。手軽な家族サービスとしてアメリカの一般家庭に重宝された。なにせ自家用車の中なのだから、リビングと同程度に閉じられた私的空間である。大きな音を立てて物を食べようが、おしゃべりに夢中で映画を観ていないだろうが、注意される筋合いはないわけだ。事実、デトロイトにあった世界最大のドライブ・イン・シアターは、最後部ではスクリーンは切手の大きさほどにしか見えなかったという。今日での常識からすれば、あまりに映画の存在が軽んじられた映画館であろう。

時を前後して、ピクチュア・パレスは1940年代後半に衰退の一歩を辿る。そして1960年代に各家庭にTVが普及することで、わざわざ車を出して映画を観に行くドライブ・イン・シアターは無意味なものとなり、終焉を迎える。その代わりに登場したのが、シネマ・コンプレックスなる複合映画館である。1975年『ジョーズ』以降のブロックバスター映画との親和性も良く、現在まで映画館のスタンダードとして君臨し続けている。

このシネマ・コンプレックスは、映画作品の均質性を担保している。どの場所にあるシネマ・コンプレックスであろうとも、同じ作品が同じように観られるのが最大の特徴であるからだ。シネマ・コンプレックスの均質性を正当に体感するならば、観客も同じように均質性を保とうと努力しなければならず、そのために静粛を強制される。観客がおしゃべりをしていれば、それは他のシネマ・コンプレックスとは別種の空間になってしまい、均質性が壊れてしまうのだから。

シネマ・コンプレックスは、特に1990年代から、音響性能の向上を至上命題としている。まるでピクチャ・パレスにとっての過剰な装飾と同じように、ひたすらに音響にこだわる。外部からは遮音され、空調の音すら聞こえないのは、日常から切り離された特異な空間であろう(その意味で、ピクチュア・パレスと似ている)。観客は、その非日常な空間の創出に協力するために、静粛性を保っているわけだ。

ニッケルオデオン→ピクチュア・パレス→ドライブ・イン・シアター→シネマ・コンプレックスと映画館史の流れを見ていくと、映画館が日常の一部であるか非日常の空間であるかは交互に入れ替わっており、非日常のターンの時に静粛性を求められていることが解る。もちろんアメリカだけの話であるし、期間もまちまちではあるが。それにしても、この傾向が未来も続くのであれば、シネマ・コンプレックスの次に来るのは、静粛性を必要としない日常の空間ではないかという暴論も一応は説得力を持つ。

ともかく「映画館では静かにするものだ」というマナーは、100年以上ある歴史を振り返れば、いつの時代でも当然というわけではない。たまたま現在主流のシネマ・コンプレックスが静粛性を求めているだけだ。さらには昨今の映画館人口の減少に伴い、シネマ・コンプレックスも均質性だけではなく他との差異を打ち出して映画館ごとのオリジナリティを打ち出してきている。そのひとつが「応援上映」であり、この場合は大きな声を出すことこそが非日常空間の創出への一助となる。

早晩、シネマ・コンプレックスにおける音響設備のインフレは頭打ちになるであろう。その先、映画館の新たな常識がどうなるのかなんて、誰にも解らない。映画館の静粛性なんてものは、数年後には古びた風習となる可能性もあるということを肝に銘じておいたほうがいい。

もしもこの先、映画という形態が急進的に進化して、上映の途中でいきなり役者が劇場に現れてスクリーンの前で歌い出して周囲の乗客もそれに合わせて声援や拍手を贈り出したとき、それでも金科玉条のごとく「映画館では静かにしないといけない」と黙りこくっているのだとしたら、とても勿体ないことではないだろうか。

 

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映画館が好きなら必読の書です。

映画館と観客の文化史 (中公新書)

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