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【邦画】『さかなのこ』感想レビュー--世界は不条理であると認識するのが、さかなクンになるための第一歩である


監督:沖田修一/脚本:前田司郎/原作:さかなクン
配給:東京テアトル/上映時間:139分/公開:2022年9月2日
出演:のん、柳楽優弥、夏帆、磯村優斗、岡山天音、三宅弘城、井川遥、さかなクン、西村瑞季、宇野翔平、前原滉、鈴木拓、島崎遥香、加賀壮也、朝倉あき、長谷川忍、豊原功補

 

注意:文中でラストシーンに触れていますので、未見の方はネタバレにご注意ください。

 

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映画『さかなのこ』の冒頭シーンで、のんがベッドから目覚めるのは生活感のカケラもない異様に広い洋館である。水槽のイシガキフグに食事を与えて歯を磨いてあげたあと、クローゼットの扉を開けると、白衣とハコフグの帽子がずらりと並べられている。白衣ではなくスウェットスーツを着込んだのんは、その格好で玄関を出て路地を歩く。比喩を含んだ虚構的な印象描写であるとは予想できるものの、そこのシーンの意味を完全に掴むのは難しい。

冒頭だけではなく、本作における世界は論理的な調和の形成が放棄され、不条理な空間で満ち溢れている。小学生のみー坊(演:西村瑞季)が訪れる砂浜は、子供たちが波打ち際で遊ぶような海水浴場なのだが、そのすぐ横で釣り人が釣竿を垂らしている。現実にはあり得ない謎の状況に面食らう。みー坊は海中で自分の背丈よりも大きいタコを捕まえ、家で飼うと言うが、目の前で父親によってタコを岩に勢いよく叩きつけられる。呆然とするみー坊だが、そのあと焚火で焼いた蛸の足を美味しそうに食べる。

状況もだが、水族館では時を忘れて見続けるほど大好きな蛸を、それでも美味しく食べるみー坊の感性も常識の範疇からは外れている。原作であるさかなクンのエッセイ『さかなクンの一魚一会 まいにち夢中な人生!』によると、このエピソードは実話準拠であり、たしかにさかなクンがTVに出始めたころは「え、魚を食べるの?」という反応が多くあった。さかなクン自体が現実の常識では覆えない不条理な存在であるため、その半生を映画化した本作も不条理にならざるを得ないのだ。

 

映画の中での不条理は、みー坊が中学生になってからも続く(中学生以降は、みー坊をのんが演じる)。みー坊が書いて校内に貼り出している新聞に、勝手にバイクの詳細を書かれて迷惑しているヤンキーの総長(演:磯村優斗)がいる。「何度も辞めろって言ってるだろ」と突っかかるが、みー坊は「ジャーナリズムが暴力に負けちゃ駄目ってお母さんが言ってた」と意に返さない。総長は「ジャーナリズムが人を傷つけていいのか」と返すわけだが、どう考えても正しいのは総長で間違っているのはのんという、物語の調和を否定する謎の構図になる。

総長とは別のヤンキーが大切にしているバタフライナイフを借りて魚を捌き、臭くなるから自分のナイフは使わないとあっけらかんと言うみー坊は、客観的に見て無邪気な悪であり、ヤンキーのほうが被害者だ。それでも魚を奇麗に捌くだけでみー坊に一瞬で絆されて理解者となるヤンキーたち。ついには、みー坊とともに素人初のカブトガニの人工孵化に成功する。いわゆる「オタクvsヤンキー」という状況のはずだが、定型の脚本術を嘲笑うかのような不条理な展開が続いていく。

こうした不条理の最たるものが、みー坊の性別だろう。映画冒頭で、「男でも女でも、どっちでもいい」と太い筆文字で表示されるとおり、みー坊の性別は明らかにされない。というより、性別による区分け自体が無意味とされている。みー坊が大人になったあと、小学生からの親友でクラスメイトから「結婚しろよ」とからかわれていたモモコ(演:夏帆)が、行くところが無いからと子連れでみー坊のアパートを訪れ、3人で暮らし始める。みー坊が男だとすればざわめきが止まらない展開だが、ひとつの不条理として自然に状況を受け入れられるから驚きだ。

生活感の無い洋館のように、釣り人と海水浴客が混在する砂浜のように、常識と分別があるヤンキーのように、みー坊の性別もまた、虚実の混濁した曖昧なものとされ、世界の不条理を形成している。モモコは本作の中では珍しく、世界の調和の中で生きており、それゆえ苦労しているのだが、みー坊と触れ合うことでひと時の不条理に安らぎを得る。同じくみー坊の小学校からの親友・ヒヨ(演:柳楽優弥)は、恋人と別れてでもみー坊の産み出す不条理に引き寄せられる。

原作であるさかなクンのエッセイを読むと、母親を始めとして周囲の人間が、さかなクンに対して理解があり優しすぎる。さかなクン目線だからなのもあるだろうが、変人と見られていたのは自覚しているものの、直接的なイジメや嘲笑には一度も合っていない。仕事ができなくて怒られたりはしているが、「魚に詳しい」「絵が上手い」といっただけで、周囲は勝手にさかなクンを好きになり、応援するのである。この、尋常ではない周囲の理解こそが、さかなクンなる奇妙な存在を創り上げている。

映画の中ではフィクションじみていた「寿司屋の壁一面に魚の絵を描いたら、その寿司屋が話題沸騰になった」というエピソードは、まさかの実話準拠である。「ちゃんとした寿司屋」(劇中のセリフ)らしからぬ彩度の高い派手な絵なのに店は繁盛し、イラストレーターとして仕事が舞い込むきっかけになっているのだ(原作本には写真も載っている)。繰り返すが、さかなクンの半生はこうした周囲の盲目的なほどの理解によって起こる人生の転機が何度もあり、そのため劇映画にする以上は不条理な空間にしないと成り立たないのである。

これは残酷な事実ではないだろうか。この映画は、一見すると「好き」を極めれば成功するという内容のようでいて、実は不条理な世界でなければさかなクンになれないと看過しているのだから。そのことを象徴的に表しているのが、みー坊の小学生時代に近所に住んでいるギョギョおじさんである。ギョギョおじさんは子供を見つけるとハイテンションで「魚の話をしようよー」と寄ってくる。子供たちからは変な人だと噂されているだけだが、大人たちからは完全に不審者とされていて、最後は誤解もあってパトカーで連れていかれる。

ギョギョおじさんは、「さかなクンが、もしも『TVチャンピオン』に出ていなかったら」というIFの姿であり、しかもさかなクン自身が演じている。エッセイに書かれているようなサクセスストーリーは、ひとつ歯車が狂えば成立せず、さかなクンは近所の不審者扱いされていたかもしれないというリアリティ溢れる仮定が無情に描かれている。本作のプロットで例外的に秩序立っているのが、TV出演して人気者となったみー坊が子供たちに追いかけられて逃げ回るというギョギョおじさんと真逆の状況になるラストなのだが、あまりに示唆的であろう。

いくら「好き」に没頭しようと、周囲の理解による奇跡が何度も起こらなければ没落していく。そのためには、世界が不条理でなければいけない。本作は愉快なシーンの裏側に絶望的な結論を内包しているが、それでもまずは世界が不条理であると認識することだ。それが、我々がさかなクンになるための第一歩である。
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