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【邦画】『リトル・サブカル・ウォーズ ヴィレヴァン!の逆襲』ネタバレあり感想レビュー--サブカルに対する認識が古過ぎるため社会批評が成立していないのでは

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監督:後藤康介/脚本:いながききよたか
配給:イオンエンターテイメント/上映時間:102分/公開:2020年10月23日
出演:岡山天音、森川葵、最上もが、本多力、柏木ひなた、水橋研二、落合福嗣、小林豊、大場美奈、萩原聖人、安達祐実、平田満、滝藤賢一、天野ひろゆき

 

注意:文中で終盤の展開に触れていますので、未見の方はネタバレにご注意ください。

 

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 名古屋の「メ~テレ」で放送されたTVドラマの劇場版。ここ最近、地方テレビ局が制作したドラマの劇場版が乱発されているのだが、どういう理由なんだろう。で、これは東京キー局でも同じ傾向なんだけど、TVドラマの劇場版って無意味にカットを割る傾向があるような。本作なんて、1秒未満の一瞬をジャンプカットで飛ばす謎の処理を何度もやっているのだが、本当に目的が解らない。

では、あらすじ。ヴィレッジヴァンガードのアルバイト・杉下啓三(演:岡山天音)は、翌日のセールに向けてバイト仲間たちと和気あいあいと準備に取り掛かっていた。ところが徹夜作業中に通路で眠ってしまい、目が覚めるとサブカルの排除された世界に変貌していた。店には検閲が入って少しでもサブカルっぽいものは撤去されるし、サブカルに毒された者は通報されて特攻警察によって連れていかれるディストピア世界。アンチサブカルに洗脳されたバイト仲間とサブカルを救うべく、杉下は奮闘する。

とまあ、何かしらを害悪とする仮想世界を創造して、その中で主人公が反乱分子となって立ち回ることで、その何かしらの存在価値について改めて訴えるパターンですね。ディストピアものの定型のひとつで、俎上に上げられているのが、今回はサブカルであると。となると、ここで重要になるのは、そもそもサブカルとは何なのかという根本的な部分であろう。

映画冒頭の『スター・ウォーズ』パロディによって、劇中におけるサブカルの定義が文章で示されている。ちゃんと覚えていないけど「高尚なメインカルチャーからは卑下されていた低俗なもので、しばらく馬鹿にされてきたのだが、最近はアイドル文化などと融合して市民権を得ている」みたいな説明だった。あくまでこの映画の中では、メインカルチャーと対抗するものをサブカルと呼んでいる、とのことらしい。

サブカルを世界から排除しようとする特攻警察を仕切るのが平等(たいら・ひとし 演:萩原聖人)と平和(たいら・のどか 演:安達祐実)の兄妹。たぶん『ニッポン無責任時代』の平均(たいら・ひとし)と同じ一族だと思う。兄の等は「個人それぞれの"好き"があっては世界は平等ではなくなる」「相手の"好き"を認めず対立しては、争いが生まれ、平和ではなくなる」と、サブカルがいかに害悪か訴える。

「個人それぞれの"好き"がある」→「相手の"好き"を認めない」の流れに論理の飛躍があるため、どうにも主張が成立していないのが問題だ。趣味の細分化によって交流が途絶えるタコツボ化を危惧しているようなのだが、さすがにサブカルに対する現状認識がズレている。そもそも冒頭のシーンで、バイト仲間たちがサブカルを通じてキャッキャッとしていたではないか。劇中でサブカルは交流の手段として確立しており、映画の中で既に矛盾が生じている。

この映画では、サブカルはメインカルチャーへ対抗するものとして扱われているわけだが、現実世界で「サブカルは死んだ」と言われるようになったのは別の理由のはずだ。簡単に言うと、2000年代中盤におけるオタクカルチャーの世間への浸透によって、対比されたサブカル好きな人々の内面が露わにされ、それゆえサブカルは衰退したのである。

結局のところサブカルは「○○が好きな自分が好き」というアイデンティティの形成のために利用されていただけだと看過されたのが2000年代中盤だったのではないか。サブカル好きを自称することで自分はこういう人間であるとアピールし、他者とのコミュニケーション(一部の人間にとっては性交渉)のための道具として扱われていた。もちろんサブカル好き全員がそうとは言わないが、そうした側面は全体を見渡せば小さくなかった。

一方でオタクカルチャー好き(つまりオタク)は、対象物への愛のみで形成され、そこに自己すら存在しないというストイックさがあった(なぜオタクが服にこだわらないかの端的な回答でもある)。そんなオタクと対比される形で、ただただ自分自身のためにサブカルを利用している人々の似非っぽさが際立たされ、衰退に繋がったのが、個人的な(と強調しておくが)感覚である。

※ なお、以上は2000年代中盤の状況であり、サブカルもオタクカルチャーも現時点で随分と変化していることを付記しておく。

別にアイデンティティやコミュニケーションのためにサブカルを利用するのが悪いわけではなく、自己を徹底的に排除するオタクの姿勢にも問題が無いわけではない。ただ、映画に話を戻すと、この歴史的な流れを汲まずにサブカルを「メインカルチャーへの対抗」という古い認識でしか取り上げていないため、大前提として社会批評が成立していないのである。

あらすじに戻る。杉下が状況を理解したのち、ひとりづつバイト仲間を拉致しては各々の愛するサブカルを突きつけることで洗脳を解いていくシークエンスとなる。四肢を押さえて強制的にサブカルグッズに顔をうずめる拷問みたいなのとか。この一連だけでもインパクトのある展開にすれば面白い映画になったと思うけど、まあ普通だった。悪くは無いんだけど。

いろいろあって、最もアンチサブカルに毒されているものの、本来は宮沢賢治や中原中也が大好きな文学少女の小松リサ(演:森川葵)を、杉下がキスすることで洗脳から解く。結局サブカルってそういうことか。しかし冒頭の定義だと、宮沢賢治や中原中也はサブカルでは無いような。逆にメインカルチャーとして名前が挙げられるのが灰谷健次郎ってのも、なんだかよく解らないし。別にいいけど。

さて、杉下と洗脳が解けた店員一同はヴィレヴァン本店に立て籠り、特攻警察と全面対決となる。ここでも改めて平等(人名ね。ややこしいが)からサブカルがいかに害悪か語られるわけであるわけだが、前述したとおり、平等の「個人それぞれの"好き"があっては争いを生む」という主張は現状のサブカルからはかけ離れている。むしろ、これってどちらかと言えばオタクカルチャーに対する危惧だろう。映画全体を通じて、サブカルとオタクカルチャーを混同しているように見受けられるのだが。

一方の杉下らは、平等の指示通りにサブカルグッズを燃やす。だが「モノは無くなっても、人の"好き"が残っていれば、サブカルは消えない」と主張する。これもまたオタクカルチャーの思想に近いが、好意的に解釈すれば「サブカルもオタクカルチャーのようになれば絶滅は免れる」という宣言かもしれない。能町みね子がある本の推薦文で寄せた名言「一度サブカルは死ね。そして甦れ」にも通じているし。

でもさあ、言わずもがな夢オチで終わるんだけど、そのあとにくっついているエピローグで、「安室奈美恵に興味があって」と相談してくる客に対して、店員が寄ってたかって「安室奈美恵が好きな漫画」とか「安室奈美恵と同い年の作家の本」とかを押し付けていく所作は、サブカル好きの悪い部分を凝縮したようなシーンだったけど。そういう強制的なコミュニケーションの発露が、サブカルのイメージを悪くしてるってのに。

もしもこの映画のように、サブカルの衰退がメインカルチャーとの対立によるものだとヴィレヴァン自体が考えているのならば、今の業績悪化を食い止めることはできないと思うが、杞憂だろうか。あと、どうしても引っかかるのが、この映画の主要な舞台になっているヴィレヴァンって、イオンモールの中にある店舗なのね。配給もイオンエンターテイメントだし。イオンがヴィレヴァンにした仕打ち、もう忘れたの?
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