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【邦画】『SUNNY 強い気持ち・強い愛』ネタバレ感想レビュー--新たに捏造された「憧れの過去」への執着は、絶対的に正しいのか?

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監督&脚本:大根仁
配給:東宝/公開:2018年8月31日/上映時間:118分
出演:篠原涼子、広瀬すず、小池栄子、ともさかりえ、渡辺直美、池田エライザ、山本舞香、野田美桜、田辺桃子、富田望生、板谷由夏、三浦春馬、リリー・フランキー

 

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52点
篠原涼子演じる奈美が高校生時代の仲間を探す現在パートと、広瀬すず演じる奈美が高校生活を送る1995年前後を舞台とした過去パートが交互に組み合わさる構成である。この、過去パートで奈美が通う高校が、全員がコギャルという女子高で、授業が成り立たないほど荒れ果てている。(ボクは登場人物たちとほぼ同世代にも関わらず)コギャル文化に全く詳しくないのだが、これはどれほどのリアリティなんだろうか。

※ 劇中で「日本中がコギャル一色だった」みたいなセリフがあるが、実際にはあれは大都市のごく一部のムーブメントで、地方に住む者にとってはメディアを通して見る半分虚構の存在であった。当時大流行していたプリクラだって修学旅行先で初めて実物を見たくらいだし。

『クローズ』みたいな荒廃したヤンキー高校のコギャル版である。ヤンキー高校同様、もしかしたらどこかにあったのかもしれないが、現代の感覚に照らし合わせたイメージとしては限りなくフィクションであろう。コギャルたちは、とにかく騒がしい。パンフレットによると元コギャルの監修からは「人の話を聞かず、遮るように自分の話を被せて喋っていく」と指導されたそうだが、これが甲高い声でエンドレスで続くという、果てしない狂騒の世界が広がっている。

過去パートはストーリーもそれに準じており、いくつものベタ(つまり、記号的)なエピソードが断片的に散らばっているだけで、話全体の骨格は存在しない。これは現在パートも同様で、アル中とか豊胸手術とか、昔の仲間がこう変わっていたというエピソードは、いずれもベタなうえに、その場限りでそこから話が転がっていくわけではない。現在パートについては、当時つるんでいたうちのひとりが余命わずかのため当時の仲間を探すというメインの筋があるものの、これだって過去パートの狂騒を心の拠り所として再び追い求めているがゆえである。

そう、ひたすら狂騒なのである。過去パートは、ストーリーすら犠牲にして、ただただコギャル文化の再構築のみを目的としている。現在パートも、そんなコギャル文化こそ人生の大事な支えだと執着して、それのみを推進力として話が進む。過去を見つめ直すことで現在の自分が変わるというわけでもない。「コギャル時代の過去を追い求めた」→「当時の仲間に現在の自分を助けてもらった」という展開が非常に不健全である。

※ ところで、ちょうど宅建試験の勉強中なので気になって仕方ないのだが、遺言とか相続とかの手続きは相当難解ではないだろうか。遺言で「ビルを買い取ります」って、死者が買い手となる契約はできるのか? そしてそのビルは誰に相続されるんだ?

過去への執着によって、自分自身が何も変わらずとも未来が勝手に切り開かれるというのは甘すぎる考えだが、本作の場合は、その執着している過去が「再構築されたコギャル文化における狂騒」という時代的にも新しいものである。昔は悪かったとか言っている人のほとんどは『クローズ』的な荒廃した高校にはいなかったであろうが、「憧れの過去」として彼らの心の中に存在しているのだと思う。それと同様に大根仁監督は、現在30代後半の女性たちが「憧れの過去」としてもらうために、あのフィクションめいたコギャル高校における狂騒を捏造し、提供したのであろう。

「憧れの過去」なんて矛盾めいたものは厄介でしかない。そんなことは大根仁監督も解っているはずだ。だがそれでも、現在30代後半の女性への逃避先として新たな「憧れの過去」を捏造してでも提供することは必要だと考えたのだろう。狂騒であることが重要なので、当時のヒット曲が展開とは無関係にバラバラに配置されているのも意図的だと思われる。過去を忠実に再現することは重視していない。何かしらの意味があればあるほど、狂騒ではなくなってしまうのだから。

で、そうは言っても、(ボクが同世代だからかもしれないが)どうしても拭えない違和感がある。冒頭からなのだが、TVに映る現在の安室奈美恵を見つめるのが篠原涼子であるという違和感。安室奈美恵を過去と現在を繋ぐ存在とするのはいいのだが、そこに篠原涼子が憧れを持つのには気になってしまう。現実には、篠原涼子も同じ小室プロデュースの大ヒット歌手だったはずだ。この世界線には安室奈美恵もtrf(当時は小文字)もglobeもいるが、篠原涼子は存在していないのである。

厳密に言えば、篠原涼子と安室奈美恵のブレイクは1年ほどズレていて、一瞬ではあるが「最近、篠原涼子って見ないな」という時期は存在していた(篠原と言えばともえ、涼子と言えば広末、の時期)。それを踏まえて、当時からずっと変わらず第一線の安室奈美恵(これも失礼な話で、2000年以降の安室奈美恵の進化を一切無視しているのだが)に対する思いを、現実の篠原涼子とリンクさせているのかもしれない。だが現実の篠原涼子は、女優という新たなジャンルに転身することで大成功を収め、現在も活躍しているのである。本作が絶対的な価値を置いている1995年前後からの決別によって大成した人物だ。そんな彼女に、ひたすら当時の狂騒を追い求めさせるのは、酷い仕打ちではないか。

そんなに過去への執着が大事か。未来を見据えた変化は罪なのか。捏造された過去に寄り縋って「昔はよかった」とかのたまっている歴史修正主義のオッサンと変わらないぞ。

 

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