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【邦画】『ひみつのなっちゃん。』感想レビュー--劇中の世界から偏見を排除したせいで、作り手による偏見が露わになる

 


監督&脚本:田中和次朗
配給:ラビットハウス、丸壱動画/上映時間:97分/公開:2023年1月13日
出演:滝藤賢一、渡部秀、前野朋哉、カンニング竹山、豊本明長、本多力、岩永洋昭、永田薫、市ノ瀬アオ、アンジェリカ、生稲晃子、菅原大吉、本田博太郎、松原智恵子

 

注意:文中で映画の内容およびラストシーンに触れていますので、未見の方はネタバレにご注意ください。

 

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きらびやかな衣装のドラァグクイーンがライトを浴びて華麗に踊るシーンから、この映画は始まる。だが、画面はすぐにマンションの一室に切り替わり、先ほどの映像はドラァグクイーンのバージン(演:滝藤賢一)の脳内だと判明する。今はステージに立っておらず化粧品会社の経理をしているバージンだが、自宅では舞台衣装にフルメイクの格好で、自分の踊る姿を夢想しているのだ。そんな中、慕っていた先輩のドラァグクイーン・なっちゃん(演:カンニング竹山)が急死したとの連絡が入る。

映画の脚本にはベースとして、物語において解決すべき「外の課題」と、登場人物の内面を成長させるための「内の課題」が必要だ。バージンは1年以上もステージに立っていないが、仕事が無いわけではなく、馴染みの店からは復帰しないのかと言われている。「脳内で踊る自分の姿」が冒頭に出る以上、本作における「内の課題」は、バージンが再び踊ることで間違いない。

で、先に結論を言っちゃうけど、バージンは最後まで一度も踊らないんだよ。冒頭シーンに加えて中盤では「仲間は踊っているのに自分だけは踊らず脇で眺めている」という解りやすいフリまで用意しているのに。後半の舞台は岐阜県の郡上八幡となり、ここでは日本三大盆踊りである郡上踊りが行われている。この郡上踊りは「他の盆踊りとは違い、誰でも参加できる」(盆踊りって、どこもそうじゃないのか?)ので、ラストシーンではバージンも踊りに参加しようとするが、そのタイミングでエンドロールが流れ出して映画は終わる。盆踊りすら実際に踊るシーンが無いのだ。冒頭シーンと対にならないのでは、バージンが成長したという結論には無理があり、これではとても「内の課題」はまったく達成されていない。

では、「外の課題」は、どうか。死んだなっちゃんは秘密主義者で、仲間内にすら自宅も出身地も明かしていなかった。なっちゃんの自宅を知っていそうな人を訪ねて回る序盤と、車でなっちゃんの故郷へ向かうロードムービーになる中盤の展開から、通常であれば徐々になっちゃんの過去や実像が露わになる話だと誰もが思う。ところが、全くもってそんなことにはならない。実はこの話、タイトルにまでなっているにも関わらず、なっちゃんの存在感が極めて小さい。

大体、バージンたちがなっちゃんの自宅を探し出そうとする理由からして軽い。生前のなっちゃんが「秘密は墓まで持っていく」と言っていたというだけで、家族にゲイだと明かしていないのではと勝手に深読みし、証拠を全て隠さなきゃと暴走気味に慌てふためいて、挙句の果てに不法侵入までしでかす。主人公たちが「物語の都合で動かされている」わけであるが、それにしたって動機が貧弱で無理矢理すぎる。

不法侵入していた自宅で鉢合わせしたなっちゃんの母(演:松原智恵子)に誘われ、郡上八幡でおこなわれるなっちゃんの葬儀に参加することになるバージンら3名のドラァグクイーン。ゲイとバレてはいけないため、いわゆるオネエ言葉が出ないように練習したりしている。まあ、おそらくはこれが脚本上で想定している「外の課題」なのだろう。「秘密は墓まで持っていく」というなっちゃんの言葉を守るためだが、何気ないときににポロっといった一言を金科玉条みたいに扱っているだけだからなあ。

全体的に気になるのだが、この映画内の世界にはゲイもしくはドラァグクイーン(この2つをごっちゃにしているのも引っかかる)に対する偏見が微塵もないのである。日本社会もついに成熟したという意味かもしれないけど、まだまだ現実は違うだろう。バージンと共に旅をするズブ子(演:前野朋哉)はテレビ出演で大人気の有名人なのでノーメイクでもすぐに身バレして、そのたびに人が集まり歓声が上がる。そのため岐阜の片田舎であろうとバージンたちは躊躇なく受け入れられるのだが、それは特殊な例を持ち出して不都合な現実から目を逸らす行為でしかない。

別に、現実を捻じ曲げてまで社会的なメッセージ性を排除するのもひとつの選択だが、先述したように主人公の成長も描かないのなら、本作が作られた意味はどこにあるのか。偏見のない無菌室のような架空世界で、ノーメイクのドラァグクイーンがミニコントをするのを撮りたかっただけか。実はそっちのほうがテクニックが必要であるし、結果として非常にマズい事態となっている。劇中の世界から偏見を排除したせいで、作り手による偏見が露わになっているからだ。

最も大きな例を挙げる。岐阜に向かう道中でパーキングエリアに立ち寄る一行。3名の中で最も若く見た目はナヨっとした青年のモリリン(演:渡部秀)は、初対面の男(演:岩永洋昭)から唐突にソフトクリームを奢られる。その男は、筋肉隆々の身体に黒のタンクトップ姿で、短くひげを生やして髪はポマードで固めている。形骸化された"ガチムチ系のゲイ"そのままのビジュアルなのである。

そしてこの男は、モリリンに有無を言わさず一方的に大浴場に連れ込もうとする。モリリンは更衣室を覗き(外から覗けるのもどうかと思うが)、肥満体系の中年男が勢いよく牛乳を飲んでいる(これも偏見が酷い。酷すぎる)のを見て、身の危険とばかりに逃げ出す。「大丈夫だから」とパーキングエリア内を追いかけ回す男。この一連が、コメディタッチで描写される。

パーキングエリアの大浴場をハッテン場のような扱いにするのも疑問だし、モリリンを誘おうとした男の行動は一から十まで非常識である、もはや犯罪に近い男の異常な行動を見て、さすがに笑うのは無理だ。"ガチムチ系のゲイ"であれば、たまたま出会った青年を強引に連れ込むのも当然だという、同性愛者に対する古くて差別的な偏見を持っていなくては、とてもこんなシーンは産み出せない。

ゲイに対する偏見の無い世界を創造したせいで、作り手自身のゲイに対する偏見が露わになる。これはこれで、何か示唆的なのかもしれない。だが、社会的なメッセージも無ければ主人公が成長もせず、そして作り手の偏見ばかりが充満した映画には、何も救いがないのは確かである。
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