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【邦画】『窓辺にて』感想レビュー--「他人事」と「自分事」の切り替えから感じる今泉力哉監督の態度表明


監督&脚本:今泉力哉
配給:東京テアトル/上映時間:143分/公開:2022年11月04日
出演:稲垣吾郎、中村ゆり、玉城ティナ、若葉竜也、志田未来、倉悠貴、穂志もえか、佐々木詩音、斉藤陽一郎、松金よね子

 

注意:文中で終盤の展開に触れていますので、未見の方はネタバレにご注意ください。

 

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今泉力哉監督作品の常連であり本作『窓辺にて』にも出演している若葉竜也は、今泉作品について「成長しない物語」と言っているという。おそらく若葉竜也にとっての誉め言葉だと思われるが、今泉作品に対して批判的な意見として「成長しない」という指摘も聞かれる。今泉作品の登場人物たちは複雑な恋愛感情がもつれあう状況においても表向きは冷静に振る舞い、激しく感情を露わにすることは少ない。壮絶な修羅場は起こらず、なあなあで終わると最初から解っている安心・安全の今泉印は昨今の人気の要因のひとつだが、その辺に対して「成長しない」と物足りなさを憂う声は少なからず聞く。

『窓辺にて』においても、物語のメインとなる2組の夫婦それぞれ、片方が浮気(「不倫」のほうが正確に思うが、劇中では不貞行為のことを「浮気」と言っている)しているし、そのパートナーは浮気に気付いている。だが、浮気相手を含めて誰もが自らの状況を達観しているし、主人公に至っては、妻の浮気を知っても何も感じない始末だ。たしかに、一般的な常識からすれば不自然と思われても仕方ない面はある。

さて、今泉作品において技巧面での真価が発揮されるのは、室内シーンでの固定カメラによるアングルの妙においてである。無数の直線で構成された空間の中に、2人ないし3人の人物が配置され、ワンカット長回しの会話劇が繰り広げられる。その人物配置は縦の中心線を軸に対称であったり、中心からずらされて片側に寄っていたり、あるいは手前と奥に置いて遠近法による効果を利用したりしている。まるで西洋絵画のような綿密に計算された配置だ。派手な動きのない約2時間半の映画なのに観ていてダレないのも、絵画の名作を飽きずにずっと観ていられるのと同じ感覚だからかもしれない。

時代で言えば、印象派の初期に当たる18世紀末から19世紀初頭あたりに似ているか。テーブルの上に置かれたフルーツを中心にして左右に人がいるなんて、まさに西洋絵画そのものであり、そこにブドウが一粒だけテーブルの上に転がるのだから完璧すぎる。山小屋のバルコニーで男2人が並んで座り、窓の奥では女が本を読んでいる状況を斜めのアングルによって奥行きのある直線状に並べたシーンなんて、そのまま油絵にしてエドガー・ドガの作品ですよと言われたら信じてしまう。

そんな絵画の中のように固定された室内シーンでは、きわめて重要な会話が、きわめて醒めた口調で展開される。別れ話だろうが、パートナーの浮気を知っているという告白だろうが、まるで他人事のように淡々と現状を分析するのだ。絵画の一部のはずなのに、まるで絵画を観ている側にいるかのように俯瞰的である。自分たちが絵画の一部だと知っているのかもしれない。

だが、これは映画である以上、撮影と編集によって絵画的な均衡は壊される。というのも本作、絵画的な長回しシーンの直後に、いきなり何かしらのアップが挿入されるパターンが多い。それは顔だったり手だったりトランプだったりするのだが、この唐突なアップによって、視覚的なイメージとしての、俯瞰から凝視への変換が行われる。俯瞰から凝視への変換とはつまり、これまでの達観した会話が「他人事」から「自分事」へと急に切り替わるということだ。

そして、このような「他人事」から「自分事」への切り替えは、本作の物語上でも重要なテーマなのである。あらすじを簡単に説明すると、かつて一度だけ小説を出版したことのあるフリーライター・市川茂巳(演:稲垣吾郎)が主人公。茂巳は妻である編集者の紗衣(演:中村ゆり)が担当している若手小説家・荒川円(演:佐々木詩音)と浮気をしているのに気づいている。しかし茂巳はそのことに何も感じず、それゆえ戸惑っている。そんな折、文学賞を受賞した高校生・久保留亜(演:玉城ティナ)に記者会見で気に入られたのか、たびたび会うようになる。

茂巳の親友である有坂夫妻(演:若葉竜也、志田未来)も同じように片方が浮気していて、もう片方が気づいている。これに関しては主人公夫婦と対比させる意図があるのであろう。あくまで茂巳の物語として捉えるならば、留亜および、留亜の小説のモデルとして紹介される彼氏や叔父との交流がメインである。

茂巳が最初に妻の浮気を相談するのは、初対面であり自分とは関係性の非常に薄い留亜の叔父・カワナベ(演:斉藤陽一郎)である。重大な「自分事」を、赤の他人に相談して俯瞰的に捉えてもらうことで「他人事」に変換しようとするのは、誰しもが経験あることではないだろうか。「他人事」にしてしまえば気が楽になるから。もっとも、茂巳はカワナベから「その話をするべきは私ではない」と言われ、その後に茂巳はきちんと「自分事」と向き合うに至るが。

そんな、茂巳が紗衣に浮気しているのを知っていると告白するシーン。これまでと同様、固定カメラによる長回しの室内シーンだ。だが、当初は茂巳が手前で紗衣が奥という非対称な配置だったが、会話の中で関係性が変化するのに合わせて紗衣が移動し、中盤から2人はスクリーンの中心線を軸とした対称の配置になる。紗衣の移動は茂巳との会話によるものだから、言うなれば茂巳は自らの手で絵画を描き換えたようなものだ。もっと詳しく言うならば、絵画を鑑賞するかのように俯瞰した「他人事」から、自ら筆を取り絵画を描くような「自分事」への華麗な切り替えが行われたのである。

撮影や編集からも、物語からも、「自分事」を一旦は「他人事」に切り替えるが、最後は「自分事」へと再び切り替えるという一連が組み込まれている。この一連は、やはり人間的な成長に他ならないだろう。その意味で、今泉作品に対する市井の批判的な意見への率直な回答であり、今泉監督の態度表明のようにも取れるのである。
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