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【邦画】『私はいったい、何と闘っているのか』感想レビュー--誰かの自分勝手な承認欲求が、他の誰かを救うこともある

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監督:李闘士男/脚本:坪田文/原作:つぶやきシロー
配給:日活、東京テアトル/上映時間:114分/公開:2021年12月17日
出演:安田顕、小池栄子、岡田結実、ファーストサマーウイカ、SWAY、金子大地、菊池日菜子、小山春朋、田村健太郎、伊集院光、白川和子

 

注意:文中で中盤までの展開に触れていますので、未見の方はネタバレにご注意ください。

 

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大前提の評価として、狙いが明確であり、その狙いに対するアプローチも間違っていない。職場と家庭の2つの話が同時進行し、いくつかのポイントで交差していく脚本構成も(この程度ができたところで褒め称えるのもどうかと思うが)、きちんと練られている。骨格がきちんとしているからこそ、細部の詰めの甘さが気になってしまうのがもったいない。たとえば、主人公の一人称が「俺」なのにタイトルが「私」なのは、なぜ揃えられなかったのか。

主人公は、スーパーマーケットで主任として働く45歳の伊澤春男(演:安田顕)。家庭には妻と3人の子供がいる。息子の少年野球の際には流しそうめんセットを用意し、周囲から絶賛される妄想をするも見事に失敗。しかし職場のスーパーから連絡が来れば即座に向かい、バイトが誤発注した大量のそうめんを売りさばく。店長の上野(演:伊集院光)から「春男はうちの司令塔だからな」と言われ、謙遜しつつも笑みがこぼれてしまう。

周囲から「すごい」と言われたいという、きわめて小市民的ではあるが誰もが共感するであろう承認欲求が、常に春男の頭を支配している。過剰な脳内ナレーションや自作自演によって持て囃される自分を妄想するが、現実はうまくいかない。妻の律子(演:小池栄子)やスーパー従業員の高井(演:ファーストサマーウイカ)からは、全てを見透かされている。春男による主観的視点と周囲からの客観的視点が何度も切り替わることで、器の小さい春男のせせこましい承認欲求が露わになり、よって哀愁が生まれる。

さて、春男に目をかけていた上野店長が脳卒中で急死する。次の店長は春男で決まりだとバックヤードは盛り上がっており、春男もすっかりその気でニヤニヤが止まらない。って、あのさあ、人が死んでるんだよ。どう考えても四十九日は過ぎてない時期に、さすがにこの浮かれ方はどうか。本作で、一番嫌だった箇所がここである。せめて上野店長が嫌なやつとかならまだしも、そうではないし。

大方の予想通り、店長は本部から来た西口(演:田村健太郎)が就任し、春男は副店長という新ポストに。一気に白ける周囲。それはいいのだが、この西口新店長、ただただ使えない人物として過剰にデフォルメされたキャラクターにされている。特に映画の前半、このような過剰なデフォルメ(店長の死も、そのひとつ)が、どうにも主題を邪魔をしてしまっている。冒頭で述べた「細部の詰めの甘さ」が、これだ。

ほかにも、長女の小梅(演:岡田結実)の結婚相手(演:SWAY)が年収5000万円で、しかも本人は「これしか稼げていない」と言ったりするのも、過剰なデフォルメのひとつ。春男との収入差を強調するなら1000万円で充分で、5000万円では意味が変わってくる。主観と客観のズレが肝の作品なのに、新店長とか結婚相手とか満場一致で「いや、それはいくらなんでも」というデフォルメされた人物が出てくると、そのズレの発生を邪魔してしまう。本当にもったいない。

春男はレジを通さずに商品を渡していたバイトの件を本部に報告しなかったのがバレて、決まりかけていた新店舗での店長の話は白紙にされる。春男の脳内ナレーションでは、そのバイトの生活状況のためだと言い訳しているが、彼の内にある承認欲求(店長になることと等化されている)の存在を知る観客は、無意識のうちの保身が春男にあったのではないかとの推測もできる。脳内ナレーションという主観ですら本心ではないかもしれないのだ。この多層性が、後半で効いてくる。

※ まあ、1ヶ月も帳簿が合わなかったのを放っておいた店長がお咎めなしなのは引っかかるけど。こいつ、一番の責任者だろ。

映画の後半、舞台が別の場所に移ってからは、過剰なデフォルメが姿を消したのと、ちょっとした言動や細かく挟まれる回想によって、春男の家庭の状況が徐々に明らかになってくる。個人的に、細切れの回想は好きでは無いのだが、本作の場合は意図が明確なためにそこまで気にならなかった。そして、ある人物と偶然出会ったところで、あまりに平静で、しかしあまりに緊張感のある、映画のクライマックスが訪れる

そのクライマックスのシーンで春男は、ある人物に、あるトラップを仕掛ける。脳内ナレーションでは「これくらいのことはさせてやろう」という相手への気づかいゆえだと語られる。しかし件のバイトと同様、脳内ナレーションですら本心ではないかもしれないと知る観客は、本当は春男の自己満足じゃないのかと邪推し、それゆえ単純な"良い話"には着地しない。だが春男の独りよがりの行動によって起きた出来事そのものは、その人物にとってはたしかに恩恵ではある。感情の多層性が、ある種の幸福を産み出しているのだ。

ラスト間際で、春男は「ずっと自分のことばかり考えている」と、相手を労わる脳内ナレーションが本心ではないと半ば認める発言をしている。別にそれは非難されるべきことではない。承認欲求なんてものは、誰しもが大なり小なり内に秘めていて、付き合っていかなくてはならない普遍的なものだ。そんな承認欲求からくる自己満足の行動が、他者に何かしら影響を与えるのも茶飯事であろう。あのクライマックスのシーンは、小市民的な承認欲求だって他者を救うことがこともあるのだと、ポジティブに教えてくれているのである。
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原作

 

 

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