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【邦画】『味噌カレー牛乳ラーメンってめぇ~の?』ネタバレ感想レビュー--これがサブカルだというのなら、一刻も早くサブカルは死んでくれ


監督:片山拓/脚本:藤森夕/原作:石黒志玖夢
配給:シネブリッジ/上映時間:113分/公開:2022年4月15日
出演:仲本愛美、重川茉弥、中川大輔、喜多乃愛、坪根悠仁、ハリウッドザコシショウ、アキラ100%、温水洋一、小林由梨

 

注意:文中で終盤の展開に触れていますので、未見の方はネタバレにご注意ください。ネタバレしたからどうだって作品でもないですが。

 

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謎に包まれた映画である。上映館は、それぞれ品川、横浜、梅田にあるT・ジョイ系列のシネコン3ヶ所(後に八戸でも公開)だが、品川と梅田は2週目の金土日は上映されないという不思議な編成。横浜も2週目の土日は休映。シネコンで、上映日が飛び飛びになる映画なんて滅多にない。ボクは東京在住で、予定が開けられたのが2週目の金曜日だったので、わざわざ横浜まで行くことにした。週末だけ公開しないって、観るだけでも大変である。

しかもこの映画、企画された経緯がいまいち解らない。通常はパンフレットの冒頭にイントロダクションとして書かれているものだが、簡単なストーリーとキャスト紹介だけだ。プロダクションノートも載ってないし。キャストとスタッフの短いコメントくらいしかない全16ページ(表紙・裏表紙込み)のパンフレットが930円なのは、いくら低予算映画でも高すぎる。公式サイトなどをチェックしても、なぜこの映画が誕生したのか不明で、触れられたくない事情があるのかと勘ぐってしまうほどである。

東京・下北沢の古着屋の前。突然の雨により、九州から上京してきた青年(演:坪根悠仁)が軒下に駆け込むと、そこにはひとり女子高校生がいた。素敵な出会いかもと期待をするが、突如として話しかけてきた女子高校生は「今、パンツを履いていないんです。スースーなんです」と訴えてくる。なぜ今ノーパンで下北沢にいるのか、彼女の長い長い回想が始まる。

そんな感じで本編開始。主人公は先ほどのノーパン女で、下北半島に住む女子高校生のうつつ(演:仲本愛美)。由緒正しい寺に生まれ、祖母(演:喜多乃愛)は有能なイタコであり跡を継げと言われているが、本人は東京の下北沢に引っ越して大好きなサブカルに囲まれて楽してチルして生きたいと願っている。そんな折、亡くなった母の遺影の下の引き出しに入っていた怪しい筒を開けるうつつ。すると、ポケモンGOのARみたいな狐の霊が飛び出してきた。

ユメ(声:重川茉弥)と名付けられた狐の霊は、うつつに憑依して死者を呼び出す能力を持っていた。ただし代償として、能力を使うと半径5m以内にある何かが消えてなくなってしまうという。そのことを知ったうつうの唯一の親友・葉月(演:喜多乃愛)から、祖父の霊を呼び出して遺言の在処を教えてほしいと頼まれる。葉月の父(演:温水洋一)のカツラが消えたり、祖父秘蔵のアダルトビデオのコレクションが見つかったりといった『キングオブコント』なら1回戦落ちであろう超面白いコントを披露しつつ、降霊は成功を収める。

その降霊の様子を録画していた葉月が、SNSに動画をアップする。すると即座にバズって、うつつは下北のJKイタコとして有名になり、死者と話したい人たちから続々と連絡が来る。最近の邦画、いわゆる起承転結の承の部分で「ネットでバズる」を安易に入れがち。ともかく、下北沢に行く資金集めのためと、依頼者を自宅の寺に呼んでは降霊をして金をもらううつつ。ラッパーの霊を呼び出して、「Hey! Yo」とか言ったりする様子がダイジェストで流れる。

そんな折にやってきたのは、うつつが「これぞサブカル」だとハマっているなんか長い名前のバンド(思い出せない)の、普段はKISSそのままのメイクをしているメンバー。KISSもどきが椎名林檎『本能』PVのパロディをしたり、他のメンバーはヒカキンみたいな風貌だったりと統一感が一切ないので、そういうのがサブカルだと思っているのだろう。なぜか肩からシーシャ(水タバコ)が生えてきて困っているが、あちこちのオカルト系の人を訪ねたものの誰も解決できず、JKイタコの噂を聞きつけ東京から下北まで来たのだという。

肩からシーシャが生えるっていうのは、そういう不条理コントなので、別にいいのである。むしろ、作品全体を不条理だらけにしてくれたほうが、まだ体裁が整ったかもしれない。それより意味不明なのは、なんでその解決をイタコに頼む? 死んだ人と話せるだけなのに。KISSもどきは、シーシャ屋で出会った漫画家志望の女性との話を熱心にして、感動したうつつはその女性を降霊するのだが、いや、その時点で女性が死んでいるってその場にいる人は誰も知らないんだよ。脚本の穴と言うレベルでは済まされないメチャクチャがまかり通っている。

※ ちなみに、エンドロールによるとKISSもどきを演じているのが福田雄一という名前だったのでビビったが、あちらとは同姓同名の別人だった。

降霊の代償により肩のシーシャは消えて(てことは、女性との思い出とか関係なくない?)、この一連になぜかうつつは発狂し、イタコの真似事で金を巻き上げてごめんなさいと祖母に許しを請う。しかし祖母は許さず、下北沢にでもどこにでも行けと勘当する。ここは本当に意味不明で、うつつは実際に死者を呼び寄せているのだから詐欺とかでは無いし、祖母だって普段はイタコの代金を貰っているのである。大体、あれだけ嫌っていたイタコを孫が始めたのだから、作法とかに文句をつけるのならともかく、祖母からすれば喜ぶべきことじゃないのか。うつつが真夜中の道路で腹ばいになって泣き崩れるほどの何かしらの原因は、この一連の展開のどこにもなく、理解に苦しむ。

で、うつつとは中学の時の同級生で、うつつの片思いの相手で、今は下北沢の古着屋でバイトしている蝶野春(演:中川大輔)から「会いたい」と連絡が来る。青森からはるばる下北沢までやってきたうつつ。再開発できれいに整備された下北沢駅前に感動している(ロケさせて貰ってる立場だから仕方ないけど、なんだかなあ)と、突如やってきた野良レスラー(演:ハリウッドザコシショウ 実はこの映画、シーンの合間に何度もザコシショウが現れては本ネタをしている)に絡まれ、何がどうしてか知らないが降霊(誰を? 何で?)したために代償でパンツが消えたのだと高速で説明され、そして冒頭のシーンに戻るのである。

えっと、これだと、冒頭からのフリのようであったパンツの件は伏線でも何でもなく、パンツを消すだけのために成立すらしていない言い訳を直前にくっつけてるだけじゃん。しかも、その後の展開でもパンツの件はほとんど無視されており、この物語においてノーパン設定は完全に不要なんである。女子高生をノーパンにしたいという誰かしらの欲望しか感じられない。個人的には気持ち悪いだけだが、まあ、作家性の発露ってことか。

さて、考えなくてはいけないのは、本作においてサブカルとは何かということである。うつつはサブカルの具体例として中古レコード屋、古着屋、純喫茶のメロンクリームソーダなどと形容するが、それってサブカル風の雰囲気ってだけだよね。何か夢中になっているコンテンツがあるわけではない。サブカルっぽいからという理由だけで自室の床に『AKIRA』の単行本が散らばっていたりする、そういうファッションとしてしか捉えていない。なお、ちゃんと講談社の許可を得て表紙の題名が画面に映っているのにセリフでは「A"ピー"RA」とピー音が入る謎仕様。この固有名詞に対する一瞬だけのピー音は劇中で乱発されるが、どうもピー音それ自体が面白いという発想のようだ。

うつつがサブカルにハマったのは、近所に一軒だけある中古屋でカーディガンを買ったところ、それが元々は蝶野春のお気に入りだったからである。そのことを知った春の「誰かと同じ物を好きになれるっていいよね」という言葉を真に受け、それからというもの春が教室で語る漫画や音楽の話題をうつつは必死になって聞き取り、それでサブカルにハマっていったわけである。恋のきっかけがただのカーディガンってのが致命的にサブカルを解っていない気がするが。別に押井守を連れてこいとは言わないけど、そこは漫画とかCDとかじゃないの。

重要なのは、うつつにとってのサブカルは、恋愛対象とコミュニケーションをとるためのツールでしかない点だ。サブカルのコンテンツが好きなのではなく、他者に認めてもらえるように「サブカルが好きな自分」を形成する、そのための小道具として、『AKIRA』やら何やらを利用しているだけ。自分を何者かに見せかけるべく表層的に覆うファッションでしかなく、だから『AKIRA』とカーディガンを同じサブカルだと一括りで扱うことに疑問を持たないのである。

サブカル好き青年だった蝶野春は、上京してから付き合っていた恋人が病気になり、お金を工面するために所持していたサブカルグッズを全て売ってしまっていた。結局はサブカルなんてものは、コミュニケーションの先にある本当の愛の前には無力である。それはつまり、他者とのコミュニケーションを図る行為そのものが自己中心的なエゴであり、そのために利用されるサブカルなんぞ空疎でしかないと看過される。そのことに気付かされたうつつは、またしても深夜の路上で腹ばいになって号泣する。この映画の中で、一貫してサブカルは良くないものとして捉えられている。

「サブカルは死んだ」と言われて久しいが、サブカルは今も形を変えて生き残っている。ただし、少数の人間が熱烈に偏愛するマイナーなコンテンツという本来の意味ではなく、「他者とコミュニケーションをとるために自己の表層を覆うファッションとしてのツール」という概念に変貌しているが。「急に対戦ゲームの画面になる演出」とか「シーンの合間に挿入されるハリウッドザコシショウ」とか「無意味なピー音」とか「白目を剥く女子高生」とか、極めつけは「エンドロールでのNG集」とか、どれもこれも映画の中で「面白いでしょ」と観客とのコミュニケーションを狙っている表層的なツールであり、それこそ現在のサブカルに他ならない。「ノーパンの女子高生」だって、同じくサブカルだ。

ある意味では、映画の完成度を犠牲にしてまで、現状におけるサブカルなるもののどうしようもなさを知らしめた野心作なのかもしれない。その熱い想いを受けて、あえて言う。こんなものがサブカルであるというのならば、一刻も早くサブカルは死んでくれ。
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