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【邦画/ドキュ】『東京2020 オリンピック Side:A』ネタバレ感想レビュー--河瀨直美監督には日本のレニ・リーフェンシュタールになってほしいと本気で願っているのだが


監督:河瀨直美
配給:東宝/上映時間:120分/公開:2022年6月3日

 

注意:未見の方はネタバレにご注意ください。ネタバレどうこうって作品でもないですが。

 

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河瀨直美監督には日本のレニ・リーフェンシュタールになってほしいと、皮肉ではなく願っている。芸術のために国家を利用したのだと自らを信じ込ませ、「ナチスの協力者」という十字架を背負ったまま100歳まで生き続ける。表現欲求と引き換えに器の卑小さを露呈したまま残りの長い余生を余儀なくされたリーフェンシュタールの人生そのものが、『オリンピア』以上の"芸術作品"であったと言える。河瀨監督がその域まで到達するには、まずは本作『東京2020 オリンピック Side:A』に『オリンピア』における肉体美に相当する彼女自身の作家性が無くてはいけないのだが…。

川の両側に咲き誇る満開の桜と季節外れの大雪が降り積もる風景に、藤井風の歌う『君が代』が重ねられている。「日本は四季があるからすごい」的な、あまりに陳腐で保守的で辟易とする映像だ。もっとも、これは冒頭である。クライアントである国家のお偉方の喜びそうな映像をアリバイ的に挿入しているだけかもしれない。と思ったのは間違いで、実はこの映画、全編に渡ってこんな調子なんである。

映画のメインは、特定の人物(主に選手)を追った5分から10分程度の短い物語が順番に繰り返される構成。難民問題や人種差別問題などを抱えた選手が登場するが、一人当たりに費やす時間が短いので、ぼんやりとした情報しか伝わらない。難民も人種差別も、国家の問題がそこに住む一個人に多大な影響を与えている構造で、それが五輪という硬直化したシステムによって露わになっているわけだが、10分でそこまで説明できるわけはない。結果、複雑な部分を排除して個人単位の問題に矮小化しているため、ありきたりなヒューマンドラマの大まかなあらすじだけ見せられているようだ。

本作を鑑賞していて思うのは、河瀨監督は映像美、特に人間の肉体美に対して、微塵も興味を持っていないようなのである。河瀨監督自身がカメラを回しているシーンも多くあるが、撮影のプロではないという以前に、映像に対して非常におざなりなのが目立つ。まず、肝心の試合のシーンが妙に尺が短いし。顕著なのは柔道関係者のインタビューシーンで、なぜか額と顎が画角から外れるほどのドアップで撮影しているのだ。映画館のスクリーンを占領する山下泰裕の巨大な顔面には暴力性すら感じるが、それが狙いなわけでは無いだろう。

基本的にスポーツ選手という存在は、日常生活には必要ない能力をつけるために生存適正を犠牲にしてでも自分の肉体を改造する、あえて誤解を招く言い方をすれば"生命の根源に抗う異常者"である(その中でも特に肉体に犠牲を強いるスポーツは、マラソンと相撲であろう)。そんなスポーツ選手のドキュメンタリーを撮るのに、人間の肉体美に興味の無い監督は致命的に向いていない。そこなくして、スポーツ選手という奇妙な存在を捉えるのは不可能なのだから。

個人的には『オリンピア』の映像は絶賛するほど素晴らしいとは思ってないが、撮影のために試合後の選手を呼び出してまで肉体美を追究したリーフェンシュタールの作家性には幾ばくかの狂気を感じる。そのような狂気が、河瀨監督の撮った本作には感じ取れない。難民や人種差別の問題をふんわりとした状態で並べて「問題提起してますよー」みたいな雰囲気を出しても、クライアントである日本国家のお偉方を満足させるだけだ。意味ありげに木漏れ日の映像とか挿入してみたりなど、小手先の印象操作ばかりだし。

それでも本作の中で目立つ存在といえば、選手の子供、特に赤ちゃんである。この映画、やたらと選手の赤ちゃんが出てくる。女子バレーボールの大﨑選手は出産後に期間限定で日本代表に復帰したが、コロナ禍で五輪が一年延びたために育児との両立が不可能などの理由で、五輪開催の前に引退することとなってしまう。アメリカの女子マラソン代表・トュリアムク選手は、幼児を母乳で育てるのは人間の権利だからと、感染予防のために家族の来日は禁止するというIOCの方針を覆し、夫と子供を日本に呼ぶ。

これらの母子のエピソードから五輪の欺瞞を浮き彫りにするのは容易だが、河瀨監督はそう捉えない。いずれも、コロナ禍によって家族の絆に訪れた自然災害的な危機だとしている。しかし、選手たちには同情はするけど、コロナ禍によって人生を狂わされた人々がごまんといる中で、その程度のことを重大な危機にされてもさあ。大﨑選手にとって五輪が特別なのは理解できるし、出場できない悔しさにケチをつける気は毛頭ないが、そこに客観的な視点を加えるのがドキュメンタリーの在り方だろう。河瀨監督、選手に同調しているだけにしか思えないが。

結局は兄弟の話に持っていった難民問題と同じく、子供の問題もまた家族の絆に帰結するベタなヒューマンドラマにしか消化できていない。クライアントのお爺さんたちは好物だろうな、家族の絆。よく解らないのは、この映画はどこもかしこも国家のお偉方に対する「媚び」ばかりなのだが、なんでそれを本作でやるのか。東京五輪のドキュメンタリーを依頼された時点で「媚び」による目的は達成されたのだから、河瀨監督はここでこそ自身の作家性を発揮すればいいのに。もしかしたら「Side B」でやっているのかもしれないけど。

いや、もっと最悪な予測もあって、実はこれらの陳腐なヒューマンドラマこそが、河瀨監督が本当にやりたくてやりたくて仕方ない作家性なのかもしれない。もしも、河瀨監督の作家性と国家のお偉方の持つ保守的な思想がイコールで結ばれているのであれば、リーフェンシュタールがまともに思えてしまうほどの別次元の狂気を孕んでいる。河瀨監督は日本のリーフェンシュタールになれるのかなれないのか、「Side B」の公開によって明らかになるはずである。
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そして、「Side B」のレビュー

yagan.hatenablog.com

 

 

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