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【邦画】『東京2020 オリンピック Side:B』ネタバレ感想レビュー--日本を国家というシステムから解放してしまう河瀨直美監督の狂気


監督:河瀨直美
配給:東宝/上映時間:123分/公開:2022年6月24日

 

注意:未見の方はネタバレにご注意ください。ネタバレどうこうって作品でもないですが。

 

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「Side:A」のレビューを当ブログで取り上げた際、≪河瀨監督は日本のリーフェンシュタールになれるのかなれないのか、「Side B」の公開によって明らかになるはずである。≫という一文で締めた。「Side:A」での安っぽいヒューマンドラマの羅列が、クライアントのお偉方に対する媚びなのか、それとも河瀨直美監督がマジでそういうものを撮りたがっているのか解らなかったため、判断を保留したのである。そして待ちに待った「Side:B」を公開日に観に行ったところ、たしかにそこには河瀨直美監督による作家性で充満していた。それもリーフェンシュタールなんて比較にならないほどの狂気に満ちた作家性が。

「Side:B」は変な構成で、前半はバトンを落として失格になった400mリレーの日本代表やバドミントンの桃田選手など(しかしなぜ選手主体の「Side:A」に入れないのか)を順繰りに見せるが、それらはオマケのような扱いである。中盤に「開会式まで、あと○○日」というテロップが出て以降が本番で、その後は何度か挟まれるテロップの「○○日」の数字が小さくなりつつ、五輪開催までの約2年間を時系列で追った作りになっている、ように思われる。

断言できないのは、「開会式まで、あと○○日」のテロップの直後にインタビュー映像が挟まれたり(その日に撮ったものでは無いだろう)、テロップの合間の中で数日が過ぎていたりするためであり、テロップ自体が信用できないのだ。何度も挿入される森喜朗のインタビューとか、喋っているのが五輪の前なのか後なのかすら解らない(パンフレットには記載されていたが)。時系列に着目するだけでも混乱する。

五輪前の様々な会議の様子が何度もあるが、それが何についての会議なのかは説明が無いので各々の発言から推察するほかない。その発言さえも短く切り取られたものが羅列されているだけなので、侃々諤々の議論が行われたという雰囲気しか伝わらない。天皇陛下菅義偉橋本聖子も反対デモの人々も選手村の食事統括もグラウンドキーパーも、カメラの前では人々は等価に扱われ、短い尺で断片が羅列されていくのみ。

ドキュメンタリー映画なのに何が起きているのか解らないのは、ボクのような東京五輪に関する知識がほとんど無い人は観客として想定されていないからだろうか。たしかに、冒頭のリレー選手がバトンを落とす映像を見てもこれが東京五輪の出来事とは思っていなかったし、百田選手が五輪に出場していたのも知らなかった。この辺は無知だと責められても仕方ない。

※ ところで百田選手って悲運の重なる人でありそこには同情するが、コロナ禍で一年遅れたから五輪に出場できた人という見方もできるのではないだろうか。五輪の時期がズレたことにより出場できなくなったり充分なパフォーマンスが発揮できなかった選手の悲劇は強調されるが、逆に恩恵を受けた人も少なくないのだろうなと想像する。

教養の無い者は去れ、みたいなハイコンテクストな作品なら、それはそれでありである。ただ、東京五輪に熱狂して様々な試合を観戦しては結果に一喜一憂していた人でも、「Side B」は何が起きているのか解らないんじゃないだろうか。なんせ五輪開催前の裏側の話なのだから。週刊誌のゴシップを含めた五輪に関するあらゆるニュースソースを事前に頭に入れておかなければ、到底ついていけないし、それはもはや一般教養のレベルではない。

一例を挙げる。映画中では、開会式のセレモニーチームの結成から解散までの様子が捉えられている。2018年に野村萬斎をチーム・エグゼクティブ・クリエイティブ・ディレクター(長い…)としてプロジェクトが発足したが、なぜそうなったかの説明の無いまま2020年12月にチームは解散し、改めてメンバーの1人である佐々木宏が総合統括に就任する。その就任の記者会見で「広告は芸術に劣っているわけではない」と意気揚々に発言する佐々木宏の直後、睨め付けるかのような野村萬斎の目のアップが挿入される。

2人の確執を示唆させるような河瀨監督の恣意的な編集が垣間見れるわけだが、具体的な説明はされないので、あとは受け手が好きに解釈してねと責任を転嫁しており質が悪い。それでもここに関しては、就任会見のはるか以前に行われた野村萬斎へのインタビューにおいて電通を名指ししたうえで広告的なものを否定する発言があったので、一応は繋がっている。だが、最も重要な事実であろう、佐々木宏が電通の人だとは映画中では示されない。これもやはり「その程度のことは知っておけ」ってことか。

ビックリするのは、チーム解散の直後に当初のメンバーだったダンサーのMIKIKOにインタビューしており、かなりとんでもない発言を引き出しているのだが、それがほんの数秒しか使われていないのである。MIKIKOという人に何があったかはここでは省略するが、この件に関するMIKIKOの肉声なんて、まず他のメディアでは無理であろう。河瀨監督だから撮れたものであり、言ってしまえば特ダネである。それを数秒の断片しか出さないなんて、MIKIKOの件を知っている人ならば「もっと見せてくれ」と渇望するしかないし、知らない人はこんな一瞬なんて記憶にも残らない。

何かしら一連の出来事の断片だけを無造作に並べているだけなので、物語の形成は受け手の想像力に委ねられてしまうのである。札幌で行われたマラソンの開始時刻が、前日夜に1時間繰り上がって現場がてんてこ舞いになる。そこまでは解るが、なぜ1時間繰り上がったか、それがどれだけの無謀な事か、具体的に何をしたから成功したのか、などなど、物語を語る上での必要な筋は示されず、受け手の側に放り投げられている。

この映画を観ていると、夢の中にいるような感覚になる。メルヘンチックな意味ではなく、脈絡のないシーンが次から次へと切り替わる点を指して、夢のようなのである。表現を変えると、まるでカンディンスキーの絵画のように、意味の無い無数の図形を脈絡なく並べることで巨大な全体を形成するという、きわめて抽象的な概念でしかないのが本作なのだ。

パンフレットのインタビューで河瀨監督は≪自分が個々に存在しているのは一人ではできないことで、いろんな意味で日本に守られていると思うんです≫と語っている。ここだけ抜き出すとあまりに国粋主義的だが、前後の文脈から判断するにここでの≪日本≫とは政治が作るシステムとしての国家ではなく、≪真面目で勤勉で、人のことをおもんぱかって、繊細な心を持つ日本人の気質≫(※ 「おもんぱかって」はおそらくタイプミス)によって形成されるぼんやりとした空気感を指している。

河瀨監督にとっての国家という概念は、一般的なそれとは別物らしい。天皇陛下もグラウンドキーパーも同じ日本人の気質を持った差異のない存在であり、その気質の集合体が日本という国家なのだ。なんか国粋主義よりもヤバい気がするが、リベラル思想を過激に先鋭化させたらこうなるのかなとも思う。

少なくとも河瀨監督自身は、カメラを向けた人々から、おそらくは「Side:A」と同じようなヒューマンドラマを見出そうとしている。佐々木宏と野村萬斎を繋げた恣意的な編集から、それは確かだ。しかし自分でも制御できない狂気に満ちた作家性によって、ドラマを伝えることが不可能な状態になっているのではないかと思うのだ。その狂気とは、先ほど述べた、日本という国家を国民の気質の集合体と捉えるような思想である。

無数の個人の発言や表情を小さく切り取って断片にして散りばめている本作は、まさに河瀨監督の考える"日本"そのものなのだろう。無意識に、国家というシステムから日本を解放しているのだ。しかしそれでは物語を伝えることはできない。なぜなら物語もまた、神話の時代からずっとシステムによって構築されるものだからだ。その点では、狙いは失敗しているというか、方法が間違っている。

しかし、無数の個人の思惑が無尽蔵に折り重なってひとつの集合体となり、制御できなくなった抽象的な概念こそが東京五輪なのだと主張されれば、なんだか否定できないのも確かである。ごく一部の"悪人"が利権のために牛耳っている制御されたシステムが東京五輪なのだと言われるよりも、ずっと説得力がある。河瀨監督は、図らずも東京五輪の真の姿を露わにしたのかもしれない。
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「Side:A」公開時のレビュー

yagan.hatenablog.com

 

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