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【邦画】『はい、泳げません』ネタバレ感想レビュー--よくある中年男の成長譚のはずが、虚実の境目が取っ払われることで異様なシュールレアリスム作品へと変貌する


監督&脚本:渡辺謙作/原作:高橋秀実
配給:東京テアトル、リトルモア/上映時間:113分/公開:2022年6月10日
出演:長谷川博己、綾瀬はるか、伊佐山ひろ子、広岡由里子、占部房子、上原奈美、小林薫、阿部純子、麻生久美子

 

注意:文中で終盤の展開に触れていますので、未見の方はネタバレにご注意ください。

 

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カフェのテラス席に男女が向かい合って座っている。泳げないのだから泳ぐ必要が無いと理屈っぽく主張する男に対して、ちゃんと向かい合えば泳ぐのも楽しくなると、これ見よがしに水のおかわりをして挑発する女。泳げないのとコップの中の飲み水とは違う気がするが、男は「納豆が苦手な君が無理に納豆を食べさせられても余計に苦手になるだけだろ」と反論する。すると、路上の中年男女がいきなり女に襲い掛かり、無理やり納豆を食べさせ始める。

映画『はい、泳げません』が、このような三木聡作品を彷彿とさせるナンセンスギャグで埋め尽くされた作品だったら、まだそういうものとして観られたかもしれない。だが、はっきりとギャグと言えるのは、この冒頭シーン以外には出てこない。では、泳げない中年男が妙齢の女性インストラクターと二人三脚で苦手を克服していく成長譚かと思いきや、どうもそんな感じでもない。この映画、先ほどの納豆のシーンからギャグ要素を抜いたような、虚実の境目を意図的に外すギミックが事あるごとに出てきて、とてもそんな単純な話になってくれないからである。

大学で哲学を教えている小鳥遊遊司(演:長谷川博己)は、顔に水をつけられないほど泳ぐことが苦手だが、唐突に水泳教室に通い始め、インストラクターの薄原静香コーチ(演:綾瀬はるか)の元で泳ぎを教わることになる。この、物語の重要な導入部が猛スピードで処理され、しかも主人公である小鳥遊が何を考えているのか教えてくれないため、観客は呆気にとられる。「溺れたらどうするんですか」「私が助けます」という印象的なやり取りも、さらっと済まされてしまうし。初見では作劇の基本が成り立っていないと感じるが、それは本作の真の意図を知らないからであると、後に判明する。

静香コーチは技術的な部分を教えてくれるわけではなく、かといって精神論に走ることもなく、捉えどころのないアドバイスばかりしてくる(実はここが一番の原作準拠だったりする)。哲学者らしく屁理屈をこねつつもプール通いを続けている小鳥遊だが、いつの間にか普通に泳げる程度にまで上達している。なぜ泳げるようになったのか論理的なプロセスが端折られており、どうにも予告映像などから想像していた話と違うので、面食らう。

ここまでで映画の中盤あたりだが、ついに小鳥遊が水泳教室に通う動機が判明する。小鳥遊には、かつて5歳の息子がいた。だが家族旅行中、ちょっと目を離した隙に息子が川で溺れ、助けようと飛び込んだものの泳げず岩に頭を打ち付けた小鳥遊は記憶喪失となり、息子が亡くなったときの記憶が一切無くなってしまったのだ。それがきっかけで離婚したのち、同じくらいの年の息子を持つシングルマザーと良い関係になり、今度は何かあったときにも助けられるようにと水泳を習うことにしたのである。

未来のために過去のトラウマの原因を克服するという構造だけ抜き出せば、単純な話ではある。ただ、トラウマとなる出来事によって泳げなくなったのではなく、泳げないのはトラウマ以前からなのが、少し珍しい。そのため、障害の克服が「ある時点までへの回復」ではなく「純然たる前進」となるのは悪くない。だが何よりも、その動機が観客に隠され、中盤まで主人公の行動原理が謎に包まれているのが、本作の妙な怖さを引き立てている。

前述したように、本作は虚実の境目を取っ払う瞬間が何度かある。たとえば、料理屋のカウンターで2人並んで会話をするシーン。いつの間にか背景が真っ黒になり、そこだけ現実から切り離されたような演出になる。このような、いきなりの演劇的アプローチにはギョッとする。他にも、画面を2分割しての電話シーンにて境界線を人物が超えてきたり、泳いでいるプールの中にアザラシがいたりと、別に斬新ではないが、あまりに唐突なためにギョッとする瞬間が、幾度も放り込まれる。

その積み重ねがあるからこそ、小鳥遊がプールで泳いでいると息子の幻影が見えてパニックになるシーンにおいて、逼迫する恐怖を観客にも共感させることに成功しているのである。混濁した世界の中で人間の意識下を具体的な事物によって表現している映画であり、プルトンが提唱した本来の意味でのシュールレアリスムかもしれない。

最後に、綾瀬はるかについて。どんな作品に出演しようとも、男の願う母性を与える役割を担わされ、常に聖母であることを宿命づけられている綾瀬はるか。本作でも、時には厳しく時には優しく、男を正しい方向に導いて救うための都合の良い存在にされていた。夜のプールで泣きじゃくる男を抱きしめるとかさ。ただ、彼女に負わされていた"枷"が最後まで放ったらかしであったり、意図の読み取りづらい一連のアドバイスも相まって、その母性に素直に身を委ねるのは躊躇うほどの得体の知れなさがあった。おそらくは原作エッセイに含まれる哲学的な要素が遠因ではあろうが、この綾瀬はるかの存在もまた、論理的な構築の外側によって形成されたシュールレアリスムの賜物だろうか。
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