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【邦画】『クソ野郎と美しき世界』ネタバレ感想レビュー--太田光だけがマジメに映画を創ろうとしていた

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監督、脚本:園子温、山内ケンジ、太田光、児玉裕一
配給協力:キノフィルムズ/公開:2018年4月5日/上映時間:105分
出演:稲垣吾郎、香取慎吾、草なぎ剛、浅野忠信、中嶋セナ、尾野真千子

 

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51点
元SMAPでジャニーズ事務所を退所した3人の活動を見ると、当時の騒動であったり現状の立ち位置をネタ的に踏まえていることが多い。ファンサイト「新しい地図」の名前やロゴマークからSMAPという単語があると推測させたり。Web放送された「72時間ホンネテレビ」も、基本的には「元SMAP」であることを"匂わせる"ことで成立させていた

映画『クソ野郎と美しき世界』もまた、3人の現状の芸能界での立ち位置を踏まえたうえで制作されている。まずはロゴマークの付いた複数の人物が歩く後姿を繋げたオープニング映像からして、バリバリやっている。「ボーダーを超えろ!」とかいったテロップが、いちいち彼らの現状と重なってくる。解りやす過ぎるくらいに。

ざっと説明すると、稲垣吾郎、香取慎吾、草なぎ剛の3人がそれぞれ主演を務める3本の短編があり、そのあとの4本目でそれまでの話が繋がるという構造。4作ともに監督は別の人であり、順に園子温、山内ケンジ、太田光、児玉裕一というメンツ。このうち、特に3人の現状とのリンクを盛大にやってのけているのは、2本目の山内ケンジ監督作「慎吾ちゃんと歌喰いの巻」である。

タイトルからして「慎吾ちゃん」とあるとおり、役名も香取慎吾。絵具をぶちまける系のアート絵画を勝手に塀とかに描いているため、何度も警察に呼ばれて怒られている。女性の警察官からは、「表現をしたいなら絵もいいけど、前みたいに歌えばいいじゃない」と諭される。この警察官は、かつての香取慎吾の追っかけであった。

と、初期設定からして現実の香取慎吾に非常に似ているが、さらには歌食い(中嶋セナ)という女の子が現れる。壁に絵を描くのは一旦やめて、夜の街で香取慎吾がかつての自身のヒット曲を歌おうとするのだが、「あれ…」「きみ…」「せか…」までで声が出せなくなり、急に歌えなくなる。すぐそばにいた歌食いが食べてしまったのだ。

ここで香取慎吾が歌おうとして歌えない曲だが、ほんの最初の1~2文字しか判別できないにも関わらず、明らかにSMAP時代のヒット曲のサビの歌い出しであると解る。映画館では微妙ではあるが笑いが起きていたので、それなりの人が感づいたと思われる。「おっかけのいた歌手(アイドル?)だった頃の持ち歌を歌いたくても歌えず、代わりにアーティスティックな絵画で表現をする男」って、もろ現状の香取慎吾だ。完全に狙っている。

となると歌食いはメリー喜多川の分身かと思いきや、そうではなく、ただ生きるために手当たり次第に歌を食っているという設定だ。路上の歌手から始まり、しまいには音楽番組に出演中の大御所歌手まで、歌食いの標的にされる。なぜ彼女がTV局の生放送中のスタジオに入りこめたのかは知らない。まあ、歌おうと声を出した瞬間にその人物の脳内から歌に関する記憶を全て吸い取る、ということらしい。歌を食われた側は、しばらくパニックみたいになっている。

ここですごく気になるのが、音楽番組で歌っている歌が『また会う日まで』という誰もが知る名曲なのに、歌手の名前が尾野崎紀世彦(おのざき・きよひこ)なんである。ちゃんともみあげをつけた古舘寛治が演じているのだが。現実にある名曲を、ちょっと名前が違う、本物の身体的特徴を付けくわえた別人が歌うという、不思議な状況。その状況が成立するのは、尾野崎紀世彦がモノマネ芸人の場合だけだ。しかし尾野崎紀世彦は大御所歌手ということになっていて、歌えなかったことをネットニュースでも大きく報道されている。なんだろう、この歪さ。

このシーンは本来ならば、実在する歌手に本当の持ち歌を歌ってもらうか、でなければ古舘寛治は架空の大物歌手を演じてこの映画のために作られた曲を歌うか、どちらかしかない。こんな変なことをする必要なんてない。さらには、尾野崎紀世彦は歌を忘れたショックで髪ももみあげも白髪になってしまうのだが、観ている側は晩年の白髪姿になってからも精力的に活動を続けていた尾崎紀世彦も知っているわけなので、それをショック表現とされるとちょっと故人に失礼な気もする。

つまり、香取慎吾の現状の立ち位置とリンクさせるところまではしたものの、そこから先が適当なんである。最終的には歌食いが出したウンコ(なんかカラフルな色)を食べると歌が戻ってくる(まったく歌を消化吸収してないのなら、栄養補給はどうしてるんだ?)というくだらない展開になるわけだが、それだって頭の使ってなさばかりが目立つ。あとこれ、なんだか一晩の話のようにしているけど、それだと色々と辻褄が合わないし。

もっと酷いのが園子温監督『ピアニストを撃つな!』で、『TOKYO TRIBE』を超える完全な手抜き。冒頭いきなり「Goro」と刺繍されたタオルが映り、「僕の名前は稲垣吾郎」とナレーションで自己紹介。あとは稲垣吾郎がグランドピアノを演奏しながら気取った一人語りしていくという、パブリックイメージに近いナルシスティックな姿を映して、ただそれだけ。いや、祭りの中で派手な女が男たちから逃げる様子とか、回想とかもあるけど、まあ手癖のレベル。意味ありげに登場した文学女に関しては放ったらかし。

さらには、ピアノの鍵盤を実際に弾いている手のアップのときは吹き替えで、稲垣吾郎自身が弾いていないのがバレバレなんである。稲垣吾郎の演技力の問題かと思ったが、4本目のピアノ演奏シーンは実際に弾いているように見えたので、主な原因は園子温にあると言えよう。腕が動いていないのにピアノの音は鳴り続けたりしていたので、どうでもいいんでしょうな、きっと

 

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とまあ、このように本職の映画監督たちがやっつけで仕事しているのに対し、まじめに映画に取り組んでいるのが爆笑問題・太田光だけだというのが、なんとも複雑な気分になる。正直、太田光監督作「光へ、航る」も、結果としては失敗しているとは思う。映画監督としてはほぼ新人なため、セリフ以外の表現方法ができていない。というか、基本的に文章の人なのだろう。セリフに関してはセンスが垣間見えるのだが、地の文を映像に変換する能力がない。

ただし、やはり一つの映画を創ろうとしているのは確かで、まず主演の草なぎ剛に役名が与えられていない。前の2作は演者と同じ名前だったのに。草なぎ剛だけは、現実と完全に引き離された、この映画の内側にいる存在だ。また、体の一部の欠損と登場人物の心象を、文学的にリンクさせようとしている狙いも、とりあえず意図はわかる。

園子温作品も、山内ケンジ作品も、オチの一歩手前で止めている。全ての話が繋がる(そうでもなかったけど)という4作目にオチを持ち越しているわけだが、そのせいもあって短編自体は長めのモノローグにしかなっていない。だが太田光作品は、きちんと短編内でオチはつけておいて、4作目では「途中の端折った部分を明らかにする」という形にしている。結果はともあれ、やりたいことは自明だ。

SMAPは、メンバーが何かしら不祥事を起こした後、爆笑問題と絡ませてネタにされることで禊にする、という手段を何度も取っていた。それと同じ期待(不祥事ではないが)もあっての監督起用だったのかもしれない。だが太田光は作品内に、彼らの芸能界での現状を取り込むことを一切しなかった。その「期待への裏切り」こそが彼ら3人に対するメッセージかもしれない。現状を自虐ネタ的に消費するだけでは、すぐに限界が来るのだから。

 

映画 クソ野郎と美しき世界 オフィシャルブック (TJMOOK)

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