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【邦画】『ケンとカズ』--「日本社会の最底辺」を描いた作品から何かを得ることが、どうやらできなくなってしまった

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監督・脚本・編集:小路紘史
配給:太秦/公開:2016年7月30日/上映時間:96分
出演:カトウシンスケ、毎熊克哉、飯島珠奈、藤原季節、高野春樹

 


69点
1mmたりとも映画の責任ではない。全てはボク個人の問題である。そういう前置きをしたうえで白状するのだが、この手の「日本社会の最底辺」を描いた作品から何かを得ることが、どうやらできなくなってしまったようなのだ。本作『ケンとカズ』は、千葉県市川市で覚醒剤の密売を行う男2人が「日本社会の最底辺」の中でもがき続ける話なのだが、なぜか自分の暮らしている社会と地続きになっている気がしない。なんか南米の話みたいだなあって思ってしまったのは、別に役者陣の顔が濃いからという理由だけではないだろう。

何年か前の不安定な暮らしをしていた頃だったら、多少の共感(自分のいる場所と地続きで起きていることなんだ、という感覚)は得られたはずだ。かつて長いあいだ、レンタルビデオ店で深夜アルバイトしていたが、客の中には確かに「日本社会の最底辺」に片足を突っ込んでいそうな人もいた。だが、一応は正社員となって大企業の人たちを相手に仕事をして数年経った今、「日本社会の最底辺」は完全に別世界になったように感じる。これから先、知り合いがドラッグで逮捕される機会って無さそうだもんなあ。でもこれって恐ろしいことである。本来なら身近にあっておかしくないはずの「日本社会の最底辺」という存在に対して、こういう映画を観たとしても察知できないほど感覚が鈍ってしまっているわけだから。不意に「日本社会の最底辺」が目の前に現れて引きずり込まれたとき、おそらく対処することは不可能だろう。

(ちなみに、「日本社会の最底辺」の真反対に位置する「超高層マンションの上の方でホームパーティーとかする人たち」ってのも完全に別世界になっている。ほんと、狭い社会で生きているんだなあって痛感する)

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さて、『ケンとカズ』の真髄は、ケンとカズという2人の男の間にある、奇妙だがぶっとい関係性である。ケンとカズにおけるホモソーシャル感(今風に言えばBL感)は作り手の意図では無いとのことだが、完成した作品からはビンビンに感じる。これ、2人の関係性が実のところ曖昧なんである。上下関係もよくわからないし、「ケンがカズをこの仕事に誘った」ってセリフに出てくるくらいで2人の過去もたいして明らかにされない。カズのほうが優位に立っているようだが、カズ自身の言う論理が理解不能で、ケンに対する恐怖の裏返しのようにも見える。この曖昧さを無理に理解しようとして「じゃあ、BLにしておけ」って受け手が勝手に捉えたのかもしれない。

2人の関係性を高めている要因は、どうしようもなく切り離せない肉親の女の存在だろう。ケンには彼女とお腹の中に子供がいて、今後のために金が要る。カズには認知症の母親がいて、施設に入れるためにやっぱり金が要る。カズは金を求めて世話になっているヤクザを裏切るというヤバい方に自ら突き進み、ケンを道連れにしていく。ケンは抵抗しつつも結局はカズと共に破滅への道を進んでいく。どちらにも「金が要る」という建前があるが、つまりは肉親という鎖に縛られているがゆえの、地獄への突進である。そのためにはケンとカズは一蓮托生のままでいなければいけない、と2人とも信じ込んでいる。

絶対的に逃れられない鎖(肉親)に縛られているのならば、もっと強固な鎖で互いをグルグル巻きにしてしまえばいい、ということか。「そりゃ選択肢としてはアリだろうけど、選ぶなよぉ」というつい最近聞いたセリフが蘇ってきそうだが、確かに肉親そしてヤクザなど様々なしがらみの絆を断ち切ることには成功している。だが同時に、あの意味深なラストシーン(ケンは本当にそこにいるのか?)から感じるのは、そんな自ら作り上げた強固な鎖がまとわりついたまま、これからも「日本社会の最底辺」で生きていけるのかという大きな不安ではあるのだが。

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