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【邦画】『ギャラクシー街道』--三谷幸喜ほど「映画的」にこだわる人も、そうはいない

映画 邦画

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西暦2265年、宇宙にある幹線道路「ギャラクシー街道」の真ん中辺りに店を構える寂れたハンバーガーショップを舞台としたSFコメディ。といっても宇宙空間における科学的考察は皆無(どれくらい皆無かというと、宇宙空間を平泳ぎの要領で前に進んだりするくらい。馬鹿じゃねえの)なので、変わった人たちが集まる場所、というような認識でいい。

本作の主人公であるハンバーガーショップ店長(香取慎吾)は、バリバリの人種差別主義者であり、粘液でヌルヌルの宇宙人(西川貴教)が来店した時には「帰ってもらえ」と言い放ち、妻(綾瀬はるか)に説得されると「ブルーシート」と一言だけ言う。ブルーシートで覆われた店の端っこのテーブル席で、ひとり肩を狭くしながらちょぼちょぼとハンバーガーを食べるヌルヌルの西川貴教香取慎吾の差別主義ぶりは筋金入りで、昔の恋人(優香)が終始ふざけている宇宙人(梶原善)と結婚することを知ったときは「よりを戻したいとはいっさい思わない。でも、彼女には幸せになって欲しいのに、あんなのと結婚するなんて。俺と別れたことでヤケになってるんだ」みたいな自己中な思考を繰り出す。なお、こういう設定の場合、綾瀬はるかのポジションは「根っから純真で、宇宙人だろうと全ての存在に平等に接する」タイプのヒロインなのが通例だが、本作ではそうでもない。

前作『清洲会議』を観たときも少し思ったが、三谷幸喜監督は、厭な映画を撮りたいのだと思う。主人公が厭な奴なのはもちろんのこと、人を不快にさせるには十分な程度のシモネタやグロネタも散りばめられている。店の窓に向かって痰を吐く宇宙生物とか、ただただ不快。婉曲な性描写もそうなのだが、三谷幸喜は、こういった不快なものを「映画的」だと思っているフシがある。実は、現役の日本人監督の中で、三谷幸喜ほど「映画的」にこだわる人も、そうはいない。

「映画的」へのこだわりは、ほかにも見受けられる。「ギャラクシー街道」自体が意志を持った生命体なんだという唐突な設定とか、赤い風船を持った全身白タイツの男が唐突に登場したりとか。過去作品の「映画的」なところをオマージュとして取り入れているのは明らかだ。三谷幸喜が「映画的」にこだわるのは、本来は別ジャンルの人間であることを意識しすぎているからだろうか。ただ、三谷作品における「映画的」なものは、いつも唐突に登場する。これが最大の問題だ。

ばらまかれた無数の点が、線で繋がっていき、面となり、立体となって、最後にひとつの大きな作品となって完成する。本作のような様々な人間が半分偶然的に1ヶ所に集まるような群像劇であれば、まっさきに取るべき有効な手法だ。だが三谷幸喜は、この手法を選択しない。むしろ、点と点が繋がリそうになるやいなや、シモネタなりつまらないギャグなりを唐突にブッ込んで切断する。ギャグ自体が面白いかどうかは触れないが、ギャグを挿入するタイミングが変なのは確かだ。

詳しい説明は飛ばすが、ボンテージ姿の遠藤憲一が妊娠して卵を産もうと悪戦苦闘するシーン(それにしても、こうして文章にしてみると、ちょっと面白いんだよなあ。なんで映画になるとああなるんだろ)。クライマックスであり、本来ならバラバラだった各エピソードが繋がっていく大事なシーンであるはずだが、そうはならない。店内にいる数人(全員じゃない)が遠藤憲一の周りを囲んでいるだけ。そして、「この人は水分が少ない体質なので、安全に卵を産むにはヌルヌルなものが必要だ!」とか医者が唐突に言い出す。そして昆布がどうとかいう話になるのだが、いるだろ店の隅っこに! ハンバーガー食べてるだろヌルヌルの宇宙人が!! なんで完全無視なんだよ!!!

冒頭にヌルヌルのせいで差別されてた宇宙人が、クライマックスでそのヌルヌルが役に立って、その光景を見て主人公も考えを改めるとかすればさ、ベタだし細かい点はいろいろあるけど一応起承転結が整ったよくある話になるじゃん。このシーン、西川貴教はその場に存在しないことになっているのだが、なぜ、むりやりセオリーを無視してまで、点と点を繋ぐのを拒絶するのだろうか、三谷幸喜は。

点と点が結びつき作品が映画になりそうになると、「映画的」なものを唐突に挿入してぶっ壊す。そんな既存の映画的価値観をズタズタに切り裂く悪行は、もしかしたら非常に「映画的」なのかもしれない。