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【邦画】『映画 おそ松さん』ネタバレ感想レビュー--これは英勉監督の集大成であり、魂の叫びである

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監督:英勉/脚本:土屋亮一/原作:赤塚不二夫
配給:東宝/上映時間:111分/公開:2022年3月25日
出演:向井康二、岩本照、目黒蓮、深澤辰哉、佐久間大介、ラウール、渡辺翔太、阿部亮平、宮舘涼太、高橋ひかる、前川泰之、桜田ひより、濱田マリ、光石研、栗原類、八木莉可子、厚切りジェイソン、忍成修吾、加藤諒、南果歩、榎木孝明

 

注意:文中で終盤の展開に触れていますので、未見の方はネタバレにご注意ください。

 

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ジャニーズ事務所が主導するアイドル映画は、全盛期の少年隊から最近のジュニアがたくさん出てくるものまで無数に作られており、ひとつのジャンルとして確立している。それらは特定の支持層に向けられたファンムービーなのだが、本作『映画 おそ松さん』の企画を最初に知った時に最初によぎった不安は、その食い合わせの悪さである。なぜ『おそ松さん』なのか。いや、『ピカ☆ンチ』『エイトレンジャー』だって明確な答えはないけれど、これらはオリジナル脚本だ。あくまで閉じたファンムービーなのに、『おそ松さん』なんていう別の熱い熱量を持ったコアなファンを持つ原作に手を出してしまうと、ややこしいことになりやしないか。

本作の主演であるSnow Manのファンと、アニメ『おそ松さん』のファンは、別に同じではない。映画で見せるべきがSnow Manであれば、そのためだけに利用される『おそ松さん』は、不憫な扱いにされるのが道理だ。蜷川実花監督の自意識のためだけに利用される岡崎京子と似たような事態になるやもしれない。Snow Manのファンとしても、内輪で盛り上がりたいだけなのに、外側の人々に不快な思いをさせたくない気持ちはあるだろう。

と、そんな心配をしていたのだが、映画を観始めて5分後には、その心配は杞憂だと悟った。度を越えたシモネタなど「アイドルなのに、こんなことやっちゃてる」ギャグや、「実写だと無理あるよな」的な楽屋オチなどは、開始早々にさっさと済ませ、本題が始まってからは急展開を迎える。これ、『おそ松さん』と同時に、Snow Manも利用されているだけだ。利用しているのは誰かと言えば、英勉監督である。

『賭ケグルイ』シリーズなど、エンタメ大作を数多く手掛けている売れっ子の英勉監督だが、ジャンルの似通っている河合勇人監督福田雄一と比べると、「何をすれば観客が楽しむか」を真剣に考えており、あまり手抜きをする印象が無い。『ぐらんぶる』では青春成長モノとしての定番要素を排除して単発のギャグに徹し、『妖怪人間ベラ』ではサスペンス、サイコスリラー、モンスターと種類の違うホラーを順番に並べてくっつけていた。いずれも特定の観客には刺さる内容であるし、『映像研に手を出すな!』も、『前田建設ファンタジー営業部』も、観客層の見極めに関してはドンピシャであり、そのためには、製作委員会が提案しそうな安全策としてのセオリーを無視することも辞さない。

では、本作の構造を簡単に説明する。Snow Manメンバーが演じるおそ松ら六つ子の元に、大企業のCEOである老夫婦から「ひとりだけ養子にもらう」と言われ、六つ子それぞれがふさわしい男になるべく努力を始める。ここまでは予告にある通りだ。だが、おそ松は図書館で儚げな少女と出会うし、一松は怪しげなデスゲームに参加することになるし、十四松は江戸時代にタイムスリップする。つまりは、六つ子それぞれが主人公となった「映画でありがちな話」が同時多発するのだ。イヤミやトト子ら『おそ松さん』の脇役たちは、客観的な立ち位置でツッコミを入れるポジションとなる。

固有名詞を全く出さない(デスゲームの時に「カイジかよ」とか言わない)のは偉いし、そういうところを福田雄一には見習って欲しいが、別にギャグ映画でパロディを用いるのは珍しいわけではない。だが重要なのは、これらパロディが、その場限りのギャグでは済まされていない点である。パロディをすること自体が主な目的になっているのだ。

そもそも本作、パロディ以外の要素がほとんどなく、同時進行する複数のパロディを一切投げ出さずに目まぐるしく展開させては大量の伏線を張り、やがてひとつの話に収束していく。この高度に組み立てられたプロットは、単純に素晴らしい。それは脚本の土屋亮一『ウレロ☆未確認少女』とかの人)の手腕であるが。風呂敷を広げるだけで畳まない映画が多い中(『おそ松さん』だからそれでも許されるのに)、これは素直に圧倒された。

そして、様々な「映画でありがちな話」の主人公をSnow Manにさせることで「いろんな役を演じているのをファンに見せる」というアイドル映画のタテマエは成立している。それに、多少の強引な展開(チョロ松が一瞬のうちにホストの帝王になったりとか)は、『おそ松さん』だからという言い訳で問題ない。そういう意味で、Snow Manも『おそ松さん』も、パロディをするという本来の目的のために利用されているのだ。

ともあれ重要なのは、本作は「映画でありがちな話」のパロディに批評性があるのである。それが特に露わになってくるのが、中盤から「物語終わらせ屋」として、Snow Manの残り3人(Snow Manは全部で9人)が登場するあたりからだ。「物語終わらせ屋」は、各々の物語に介入しては、急に未来にしたり、夢オチにしたり、実は喫茶店で書いていた小説の話にしたりと、オチへと強制的に持っていく。だが、自分たちが主人公の物語に酔っている六つ子たちは、それを拒否して強引に話を戻す。

そうして、物語を終わらせるか終わらせないかの攻防が続く中で、「映画でありがちな話」の様々なパターンが列挙されていく。たとえばいかにもなキラキラ青春映画のストーリーでは、いかにもなBGMが何度も流れ、難病だのタイムリープだの、よくあるいかにもなパターンが次から次へと登場する。トト子らによる客観性のあるツッコミの視点も合わさって、「映画でありがちな話」は極めて俯瞰的に解体されていくのである。

製作委員会的なセオリー通りの「映画でありがちな話」を避けがちな英勉監督が、「映画でありがちな話」に真正面から対峙し、基本構造から解体していく。しかも最後には、その矛先は英勉監督が多く担当するジャンル「漫画・アニメの実写化映画」にまで及ぶ。これほど批評的な行為はあるだろうか。『映画 おそ松さん』は、英勉監督が自身の信念に真っ向からぶつかった集大成であり、魂の叫びなのである。
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