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【邦画】『ちはやふる 下の句』レビュー--松岡茉優演じる若宮詩暢が主人公だと考えると全てがしっくりくる

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監督&脚本:小泉徳宏/原作:末次由紀
配給:東宝/公開:2016年4月29日/上映時間:102分
出演:広瀬すず、野村周平、真剣佑、上白石萌音、松岡茉優

 

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73点 ※ 前後編あわせて

『ちはやふる 下の句』は、分が悪い。試しにtwitterでも何でもいいから、本作を観た人の感想を検索してみるとわかる。ほぼ全ての人が「上の句に比べて…」と、前編との比較をしていているはずだ。スポーツアクションとしての傑作だった前編とでは、比べる対象が大きすぎる。人気漫画の実写化で2部作の後編とここまで共通点がありながら、『暗殺教室 -卒業編-』と比較する人は誰もいないのだ。

『ちはやふる』の前編と後編は、もはやジャンルが違う。そして前編と後編でジャンルが違うというのは、2部作を創る上で正当な所作のひとつであると思う。顕著な例は『ソロモンの偽証』だが、『進撃の巨人』『寄生獣』あたりも、前編と後編でなんとなく別ジャンルのようにも感じた。ストーリーをぶった切ってほぼ同じもの2つ作るよりも、ストーリーはつながっているもののジャンル(趣とか、空気感などと言ってもいいが)が別になっているほうが楽しめるし2部作にする意味も出てくるのではないか。

ここで重要なのは、前編と後編が対比されているかどうかだ。やはり『ソロモンの偽証』はここがうまくいっていた。では『ちはやふる』はどうかというと、この対比があやふやなのがもったいない。前編のラストでは「ちはやぶる~」の札が詠まれなかったことで勝負がついたのだから、後編では、どのタイミングで「ちはやぶる~」の札が詠まれるかが重要であろう。しかしそこはサラリと流してしまっている。代わりに、後編の途中でコマを用いて「ちはやぶる」の言葉を解説し、ラストに繋げているのだが、前編との対比にはなっていない。ただ話がつながっているだけで前編と後編が分離しているのであれば、2部作と銘打つ意味があまり無くなっている。

まあ、続編の制作が発表されたわけで、後編ではなく「シリーズ物の途中作」と捉えればいいのかもしれないが。

さてここで前編のことは一旦忘れて、『ちはやふる 下の句』単体では、作品としてどうだったのか考えてみたい。まず、物語の終わりがきちんと見えないのが気になる。話の流れとしては、千早・太一が新に会いにいく→千早と太一の仲が悪くなる→みんな仲間なんだということで和解→全国大会・団体戦の初戦で千早が倒れる→翌日の個人戦で千早が詩暢と対戦するも負ける、という感じ。本来なら全国大会の団体戦をオチにすべきだが、そのあとに個人戦がくっついているため、オチがどこなのかよくわからなくなっている。

肝心の団体戦は、それまでの文脈とは無関係に千早が倒れて、そのままセリフだけで結果が伝えられる。原作から抽出した各エピソードがバラバラのままでひとつの物語としてまとまっていないようだ。そのあたり、前編では完璧だったはずなのにどうしたことか。もっとアクロバティックに改変しても良かったのではないか。千早が倒れるエピソードは削除し、詩暢を団体戦に出して千早と対戦させて、個人戦は丸々カットではいけなかったのか。

それではいけないのである。これ、千早と太一の物語だと思ってみているから話がバラバラに思えるのだが、現クイーン・若宮詩暢が主人公だと考えると全てがしっくりくるのだ

原作漫画『ちはやふる』の一貫したテーマは「人は人と繋がっていることで強くなる」というものだ。千早と太一を筆頭に、脇役に至るまでほぼ全てのかるた競技者は、誰かしらとの繋がりを糧にした途端に強くなる。その中で若宮詩暢は孤独を選び、人との繋がりはかるたを弱くするという信念を持っている。なので、あくまで詩暢が行うのは個人戦であり、その前に否定すべき団体戦がなくてはいけないのだ。千早と太一の仲直りも、とってつけたような吹奏楽部とのエピソードも、「若宮詩暢の知らないところでの、人との繋がりのエピソード」という位置づけなのだ。

若宮詩暢の視点で、改めて話の流れを見てみよう。孤独を愛する同志だと思っていた新が、実は人と繋がっていると気づく→その繋がっている相手が千早だと、個人戦での対戦直前に気づく→前日の団体戦によって体調が万全ではない千早になんとか勝つ→試合後、千早に腕を握られ「ありがとう、手加減しないでくれて」「また、かるたやろうね」と言われる、という感じ。だいぶ端折ったけど。詩暢にとって千早は、新を「そっち側」に引きずり込む憎いヤツであり、しかも前日の団体戦によって体調不良中という、詩暢の信念を証明するためには必ず倒さねばならない敵である。

結果、詩暢は「人との繋がり」によってパワーアップした千早に(現クイーンにしては)苦戦を強いられ、しかも「人との繋がり」を否定するための真剣モードのはずだったのに、結果としては千早に「また、かるたやろうね」と言わせてしまうほどの「人との繋がり」を生み出してしまう。あとそれとは別に詩暢と新の繋がり、というのも絡んでいるし。

いくら孤独を貫こうとも「人との繋がり」から逃れられることはできない。若宮詩暢を主人公としたときに見えてくるのは、そんなある種の呪縛である。

ちはやふる-下の句-

ちはやふる-下の句-

 

 

 

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『上の句』レビュー

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