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【邦画】『宮松と山下』感想レビュー--何物にもなりたがらない役柄は、本来なら香川照之の解放になっていたかもしれないのだが


監督&脚本:関友太郎、平瀬謙太朗、佐藤雅彦
配給:ビターズ・エンド/上映時間:87分/公開:2022年11月18日
出演:香川照之、津田寛治、尾美としのり、野波麻帆、大鶴義丹、尾上寛之、諏訪太朗、黒田大輔、中越典子

 

注意:文中で中盤以降の展開に触れていますので、未見の方はネタバレにご注意ください。

 

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映画『宮松と山下』は、屋根瓦を様々な角度から映した何やら重厚そうな連続カットから始まり、そのまま時代劇の一場面へと推移する。侍らしき主人公が町中を走りながら追手の成らず者を斬り倒す大立ち回りが繰り返されるが、突如として主人公が走り去ってもカメラは動かず同じ場所を捉えたままとなる。すると、斬られて倒れていた男がむくりと立ち上がる。そして男は大急ぎでセットの裏側に行き、衣装を着替えて別人になってスタンバイ。そして、またもや主人公の前に現れては、同じように斬られる。

エキストラが主人公の映画という事前情報を仕入れていれば、この冒頭シーンに違和感を抱くことも無かろう。だが、次のシーンはどうか。先ほどのエキストラの男は、ふらりと立ち寄った居酒屋でカウンター席に座り、酒とつまみを頼む。ああ、エキストラの仕事が終わった後に一杯ひっかけるのだろうと誰もが思ったところで、いきなり男はヤクザらしき連中に銃で撃たれて倒れる。そしてヤクザたちが店から立ち去った後、先ほどと同じようにむくりと立ち上がって、衣装を着替えて別人になる。

いかにもオフの一場面のように見せかけたワンシーンが、実は映画の撮影だったという単純な種明かしだが、それでも観客は多少は面食らう。さらに、男のプライベートとしか思えない奥さんらしき女との些細な日常描写でさえも、わざわざ3度も見せた後で「実はこれも撮影でした~」とされれば、ここから先はスクリーンに映る全てについて疑うしかなくなる。

鑑賞中ずっと「これは現実なのか、それとも撮影中という虚構なのか?」と考えざるを得ない本作は、昨今流行りの没入感至上主義へのアンチテーゼとも言える。何が現実か解らない以上、観客は主人公と同じ気持ちになって笑ったり泣いたりできないのだから。そしてこの映画の構造と、主人公であるエキストラの男・宮松(演:香川照之)の生き方とは密接にリンクしている。

指示されたとおりに一時的な誰かの人生の端役に成り切るエキストラの仕事は、宮松にとっては天職である。宮松は記憶喪失であり、何物にもなれない。というより、診断した医者の言葉から察するに、宮松は何物にもなりたがっていない。主体性を拒絶する宮松は、常人には理解できない異常者であろうか。いや、誰しもが物語の主人公になりたがっているという決めつけのほうに問題があるのかもしれない。

撮影所を訪ねてきた男・谷(演:尾美としのり)から、本名は「山下」で、かつてはタクシー運転手で、10歳以上年の離れた妹がいると、宮松は知らされる。そして妹(演:中越典子)とその夫(演:津田寛治)と共に実家での同居生活が始まる。妹を始めとする周囲の人たちの妙な雰囲気も相まって、宮松の過去が少しづつ明らかになるサスペンス風の話に変わっていくわけだが、しかし観客はその空気感を真正面から体感できない。なぜなら、この妹との同居生活もまた、撮影中のワンシーンではないかと疑ってしまうのだから。

まるでロープウェイのように宙ぶらりんの状態で、現実と虚構の間をゆらゆらと揺れ動き、結局のところ何も解らずにそのまま終わる映画『宮松と山下』。そんな映画の中で、主体性を拒絶して無数の他者を日々演じている宮松。そして、その宮松を演じているのが香川照之である。もうずいぶん前からアクの強いモンスター的な怪演ばかりが求められてきた香川照之が、何物にもなろうとしない存在を演じるのだから、パブリックイメージによる窮屈な型を破るかのような、ある種の解放になったはずである。もっとも、そんな「何物でもない存在になる」という香川照之の解放は、図らずも全く別の形で先に行われてしまったわけであるのだが。
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