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【邦画】『ホリック xxxHOLiC』ネタバレ感想レビュー--蜷川実花監督の過剰な自意識とCLAMP漫画の持ち味は相性が悪いのではないか


監督:蜷川実花/脚本:吉田恵里香/原作:CLAMP
配給:松竹、アスミック・エース/上映時間:110分/公開:2022年4月29日
出演:神木隆之介、柴咲コウ、松村北斗、玉城ティナ、趣里、DAOKO、モトーラ世理奈、西野七瀬、てんちむ、橋本愛、磯村勇斗、吉岡里帆

 

注意:文中で終盤の展開に軽く触れていますので、未見の方はネタバレにご注意ください。

 

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蜷川実花監督の自意識の高さは、今さら説明するまでもないであろう。原作に対するリスペクトなんて微塵も無く、自分がかっこいいと思っている極彩色のヴィジュアル表現をするための踏み台としか考えていない。過剰な自意識は映画監督における重要な作家性でもあるので、大の岡崎京子ファンであるボク個人の感情は一旦脇に置いておけば、それでも別にいいのである。ただ、本作『ホリック xxxHOLiC』に関しては、この原作漫画と蜷川実花監督の自意識とは非常に相性が悪いのではないかと思う。

岡崎京子も、安野モヨコも、平山夢明も、厳密には原作ではないが太宰治も、その物語の中央に確固とした信念がある。まるでペンキのように蜷川監督の極彩的な映像表現で上っ面をベタベタと塗り替えられようとも、物語の芯の部分は揺るがず、そのため(時には辛うじてだが)ひとつの作品としては成立していた。だが、(まだ前半しか読んでおらず申し訳ないが)CLAMPの漫画『xxxHOLiC』は、物語そのものには、それほどの求心力は無い。これはCLAMPを下に見ているのではなく、先に挙げた作家たちとは、そもそも作品の売りの部分が違うのだ。

CLAMPの原作漫画は、「どんな願いでも叶えるが、対価として一番大切なものを頂く」という基本からして、神話の時代まで遡れる王道の設定である。この世ならざるものが目に見えるが対処はできないという「あちらとこちらの中間にいる存在」を主人公にするのも王道。各エピソードも、こっくりさんや猿の手など民族伝承に連なる定番のモチーフが多く、因果応報となりがちな結末も、まさに王道だ。

そのような王道の物語に、デザインアート的というかスタイリッシュなヴィジュアルのキャラクターを配置し、テンポの良いコミカルな掛け合いをさせているのが、CLAMPの漫画『xxxHOLiC』である。この原作の面白さは、語られている物語の切実さとは裏腹の登場人物たちの軽快さからくるギャップに起因しており、描き文字を多用したセリフなどを含む画そのもの、つまり表面部分こそが作品の売りなのである。

そのような原作の最も核となる部分を、蜷川監督はベタベタと自分色に塗り替えてしまっているのではる。原作を自己表現のための踏み台にするのは構わないが、手を付けてはいけないところを丸々取っ変えてしまっているので、この原作である意味すら無くなっている。

実際に映画では、原作の持つ軽快さは、根こそぎ取っ払われている。主人公・四月一日(わたぬき 演:神木隆之介)は人と交わろうとしない根暗な性格に変えられ、意中の女子と喋っただけでひとり浮かれるような原作のコミカルな面は排除されている。その原作では片思いの相手である九件ひまわりも、ノンシャランとした明るさは微塵も無く、玉城ティナという配役からして重くて影がある人物に変更されている。謎の店の主人である壱原侑子(演:柴咲コウ)も、酒好きでだらしないという小さなコミカル要素ですら、胸の谷間を強調した妖艶さばかり押し出すように変更されている。

蜷川監督の意に沿わない要素は、全て排除されるのであろう。それは毎度のことだが、今回ばかりは屋台骨となる物語の部分が心許ないゆえ、表面を派手にすればするほど作品全体がグラついている。それでも物語を原作通りにすれば王道ゆえにどうにかなるだろうに、そこでも興味が無い部分はおざなりになるのか、観客に話を伝える気すら無い。映画鑑賞中は何が起きているのか解らず、原作を読んで初めて意味が理解できた個所がいくつもあった。

一例を挙げる。劇中では侑子の最初の客として登場する女性(演:趣里)は、モデルの仕事をやっているとか彼氏がいるとかの自慢話をすると身体から黒いもやが発生する(本人には見えない)。それを抑えるための小指につける指輪を侑子から貰うが、渋谷で友達と喋っている間にも嘘をつき続けるためもやが大量に出て、指輪は耐え切れなくなり、小指に痛みを感じた女性は指輪を外してしまう。そしたら女性はいきなり発狂して、道の脇でうずくまってガタガタと震えるに至る。

まずこれ、女性が嘘ばかりついているって、原作を読むまで解らなかったからね。そんな説明は無い(「小指は何をする指か」のセリフだけで嘘つきまでは辿り着けないだろう)ので、自慢話をしているからもやが出てくるのだとばかり思っていた。指輪を外した女性が急に発狂するのも疑問が残るし、ガタガタ震えたあとどうなったのかの説明も無い。ちなみに原作では「嘘をつき続けていたらもやに覆われて体が動かなくなって、トラックに轢かれる」という展開で、こちらのほうが因果応報の論理に乗っ取っているし当事者の死をもって話をきちんと終了させているので、まだ理解しやすい。

蜷川監督は、自分の作品を観客に理解させようとする気が、さらさら無い。映画の後半では、同じ一日を何度も繰り返すベタな展開になるが、それを示すのが目覚めた時に壁にかかっている紙の日めくりカレンダーなのである。デジタル時計の日付表示とかではないのだ。日めくりカレンダーって、普通は朝になったら破るものだから、起床した時点で前日の日付なのは当たり前でしょう。もしも寝る前に破っていて朝になったら戻っているとするなら、その前日の描写を入れなくちゃいけないし。観客の視点を気にしないから、こういうことになるのね。

過剰な自意識の根源には、「他者からこんな風に見られたい」という欲望があるのが通常である。どうやったら己の溢れ出る自意識を他人に解ってもらえるか、そこに腐心するのが芸術家というものだ。だが蜷川監督の自意識には、他者からの視点への対応がすっぽりと抜け落ちている。まさにそれこそが、蜷川監督の作家性であるのかもしれない。もっとも、他者の視点を気にしない自意識ほど、どうでもよいものもないのではあるが。
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