ヤガンEX

映画とか漫画とか似顔絵とか

【邦画】『女子高生に殺されたい』ネタバレ感想レビュー--すべての要素がフラットな作品では、誰しもが己の欲望を公表せずにはいられなくなる

f:id:yagan:20220402181021p:plain
監督&脚本:城定秀夫/原作:古屋兎丸
配給:日活/上映時間:110分/公開:2022年4月1日
出演:田中圭、南沙良、河合優実、莉子、茅島みずき、細川佳央太、大島優子

 

注意:文中で映画及び原作漫画の終盤の展開に触れていますので、未見の方はネタバレにご注意ください。

 

スポンサードリンク
 

 

あらすじを一言で説明すると、「女子高生に殺されたい」という願望を持つ高校教師がいて、意中の相手に殺してもらえるような最適な環境を作ろうと綿密な計画を練る話である。本当に、ただそれだけなのだ。原作では、相手となる女子高生や周囲の人物たちの内面描写を増やし、中盤からは新たな登場人物を出して予想外のアクシデントを起こしたりしているが、それでも話自体には余白が多い。原作は古屋兎丸による漫画なので、画そのものの魅力を伝えるためにも余白は必要だが、では実写映画ではその余白をどのように処理していたか。

まず、原作からの大きな改変が2つある。ひとつは、オリジナルのキャラクターを追加し、メインとなる女子高生の数を増やしている点。しかも上映時間の前半では、教師が殺されたいと願う相手が誰なのか観客には隠されている。ミステリにおけるフーダニットの変化形だが、正直その意図が解らない。しかも、映画が始まってすぐにヒロインが誰なのかは判断できるので、そもそも隠せてもいない。何がしたいのか。

中途半端なミステリ要素は、もうひとつの改変からも生まれている。原作では、教師が殺される舞台としたのは森の奥深くで、相手と2人だけになる計画にしていた。映画では森ではなく、文化祭でクラスごとに行われる舞台劇の最中の殺され計画に変えている。実写映画における画的なインパクトのためなのは解るが、舞台を変更したために教師の計画があまりに回りくどくなってしまっている。

詳しく説明する。教師のターゲットとなる女子高生は多重人格者で、その中の一つにキャサリンという名の攻撃的な人格がある。教師はキャサリンに殺されたがっていて、「キャサリン」と大声で連呼すれば、その人格を呼び出せるのにも気づいている。そのため、「キャサリン」と何度も叫ぶセリフが入っている演劇を文化祭で行わせようとし、そのために脚本担当の女子高生に好意があるかのように近づいていく。そして、悟られることなく自分の意のままに演劇の内容や配役を決めていくのだ。

なのだが、まず、殺害計画を決行するのを文化祭にした理由って、教師が日付に拘っているからだけなのね。校舎の裏にでも呼び出して、「キャサリン」連呼を録画したテープ(教師は既に持っている)を聞かせて殺してもらえばよくない? なんで、演劇が行われている真っ最中の舞台上部にあるキャットウォークなんていうリスクの大きい場所で決行する計画を立てているのか。実写映画としての派手さを作りたいという創り手の事情以外の理由は無い。

ミステリに徹してくれれば、まだ良かったのだ。非常に回りくどく人工的な話だとしても、それが本格ミステリであれば許される。でもこれ別に、ミステリとしての魅力は微塵も無い。最初のバレバレなフーダニットの時点で興趣は削がれるし、演劇を利用した殺され計画も制作上のご都合主義だし、ビジュアル面でも(たとえば中島哲也作品のような)ヴィヴィットな画作りにはしようとしている気配はあるが、中途半端で成功していない。

ミステリでは無いとすれば、狂った教師が自身の欲望のために女生徒たちを人心掌握して操っていくというサイコパス映画として観るべきか。おそらく、これが創り手の一番の狙いのような気がする。でも、教師の持つ「女子高生に殺されたい」という狂気の説明がセリフに頼っており、あまり伝わってこないのね。過剰な撮影や照明とか、役者の演技に委ねるとか、いくらでも方法があるのに、演出表現による説得力が足りない。女子高生たちを順番に蹂躙して操っていく様子も平凡で、『悪の教典』みたいな恐怖とはほど遠いし。まず、それらの蹂躙は、前述した中途半端なミステリ要素のためにやっているだけなので、映画の肝としては捉えづらい。

教師のみに着目するから半端な印象を受けるので、ならば群像劇として観るべきか。原作漫画の肝はここにあり、古屋兎丸は登場人物のいずれもが少しづつの狂気を抱えているという設定にしている。たとえば女子高生にずっと片思いしている男子高生が出ているが、そいつは彼女の使っているシャンプーを追い求めていて、どの商品なのか何年も探し続けている。傍から見れば異常者だが、そのおかげで森の中ではシャンプーの臭いを辿って彼女を探し出すことができた。

映画では、これに類推するエピソードは消されており、男子高生はただの純朴で熱血漢の少年だ。原作と同じく超常的な特殊能力を持つ女子高生に至っては、この世界観においては唐突過ぎるうえに便利に使われているだけで、浮いてしまっている。特に女子高生たちは演者に若きエース候補を揃えているので、元来持っている存在感に圧倒されはすれど、劇中人物としては凡庸な造形に収まっている。

ミステリ要素も、サイコパス要素も、群像劇要素も、どれをとっても手抜きが目立ち、突出していない。全てが「ある要素を補完するためのサブの役割」のようで、作品の肝となる要素が無いのだ。そのため鑑賞前には何かを期待していたとしても拍子抜けしてしまう。しかし逆に考えると、すべての要素がフラットなのは、どこを抽出しようが構わないということでもある。

おそらく、本作を激賞する人は少なくないだろう。映画の要素のうちの何か一つが琴線に触れれば、それより際立った要素が無いので、心置きなく取り上げて絶賛できるからだ。だがそれはつまり、自分が何に心を奪われたかを発表しているわけで、単なるフェティシズムの公開に他ならない。男の首を絞める女子高生なのか、陰のあるメガネっ娘なのか、鍛えられた肉体の空手少女なのか、大島優子のブラジャーなのか、誰しもが己の欲望を発露せずにはいられなくなる。それこそが城定秀夫監督の狙いであり、本作の肝なのかもしれない。

-----

【お知らせ】

邦画レビュー本「邦画の値打ち」シリーズなどの同人誌を通販しています。

yagan.base.shop

-----

 

スポンサードリンク