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【邦画】『Ribbon』ネタバレ感想レビュー--のん監督が目論む"被害者意識"からの脱却と、その先にある表現

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監督&脚本:のん
配給:イオンエンターテイメント/上映時間:115分/公開:2022年2月25日
出演:のん、山下リオ、渡辺大知、小野花梨、春木みさよ、菅原大吉

 

注意:文中で終盤の展開とラストカットに触れていますので、未見の方はネタバレにご注意ください。

 

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企画、脚本、監督、主演、編集、全てのんによる映画である。言わずもがな、朝の連続テレビ小説『あまちゃん』で注目を浴びた後、なんやかんやでCMとたまにNHKに出演する以外ではTVで観ることはほとんど無くなった、のんである。歌に個展にと芸術方面での活躍は聞こえてくるが、当時の大ブレイクは無かったかのようにされて、はや数年。若手女優が映画を一から創ったという話題性のあるニュースでさえ、大手メディアからは半ば無視される現状。いやまあ、池田エライザの初監督映画だって、別に話題にはならなかったけど。ともかく、のん監督が主導権を握っている以上は、彼女の深層心理が反映されている作品なのは間違いない。

時は2020年、美大4年生の浅川いつか(演:のん)は、卒業制作のために描いていた油絵のキャンパスを抱えて、大学から家路につく。コロナ禍のために卒業制作展が中止となり、持ち帰るしかなくなったのだ。校内では、怒りに狂って何かを叩きつける学生やら泣きながら自分の卒業制作を壊す学生やらで溢れている。この「卒展が中止となったあとの大学内の情景」は、岩井俊二監督の作品を参考にしたという光の質感も相まって、リアルな描写の中に抽象的なイメージがほんのりと付加された、なんだか不思議な空間が形成されている(ちなみに、岩井俊二自身もカメオ出演している)。

後に何度も登場する「無数のリボンが宙を動き回る心象風景」なども同様で、リアルな風景に微量な抽象性を加えて少しだけ虚構的に浮き上がらせるバランス感覚が、のん監督の表現者としての才能ではないだろうか。あまりアーティストとしてののん監督の創作物には触れていないので他は解らないが、本作を観る限りでは、そのように感じた。リボンが宙を動き回るシーン、なんと樋口真嗣尾上克郎による特撮である。この2人を従えながら、CGをスパイス程度の扱いに留めるなんて、逆に度胸がいる決断だろう。

緊急事態宣言のため自宅アパートに籠るいつか。持ち帰った油絵の続きを描く気にもなれず、ぐうたらと過ごしている。そんな中、いつかの家族が順番にアパートを訪ねてくる。ここでの掛け合いはコメディタッチであり、父(演:菅原大吉)がソーシャルディスタンスのためにさすまたを持ち歩いていたり、ウィルス対策に過剰な妹(演:小野花梨)が全身黒づくめで現れたり(サングラスはウィルスには無意味だろうに)などと、日常の中へのちょっとした異物の挿入が巧みに行われていた。これもまた、のん監督の絶妙なバランス感覚によるものだ。

この、いつかと家族(母、父、妹)の掛け合いは、いずれも家族の側が少し変であり、漫才で例えればいつかがツッコミ役である。特に母(演:春木みさよ)は浮世離れの度合いが強く、いつかの卒業制作をゴミだと思って捨ててしまい(すぐにいつかが回収)、怒られても「あんなの芸術じゃないでしょう」と悪びれもせず、というか何が悪いかも理解できず、謝罪の一言も無い。いつかの卒業制作は、周囲にリボンが貼り付けられているものの単なる人物画なので、一般常識からしてゴミと判断するのには無理がある。

客観的に見て、この場面は母が絶対悪(特に謝罪が無いのが大きい)であり、いつかは完全なる被害者だ。無理解により自分の作品を捨てる人物を通して、外部からの抑圧によって思うような表現ができないのん監督の"被害者意識"が表出されているようにも見える。コメディ要素でのんの役どころが振り回されるツッコミの立ち位置なのも、自身は間違っていないという思いの表れのようだ。

のん監督は、実際に卒展が中止になった美大生の「時間をかけて作ったものがゴミのように思えてしまった」という発言に衝撃を受けて、脚本を書いたと語っている。コロナ禍により自身のフェスも中止するなど、自由な表現活動ができないところにシンパシーを感じたらしい。だが、のん監督にとっては、コロナ禍よりも以前から、自由な表現活動を周囲によって妨害されてきた経緯がある。

実情は知らないが、本名を奪われ、活動の場を狭まれたのは、少なくとものん監督の立場からすれば自身の表現に対する妨害と捉えられても仕方ない。さらには、いくら表現活動を行っても、アイドル的な有名人だから、あるいは若い女だからなどと、バイアスの掛かった状態でしか受け取ってもらえない虚しい実情もあるとされている。本作の主人公に"被害者意識"がついて回るのは、そのような経験を経たのん監督の無意識が反映されているからではないか。

だが、映画の後半で、のん監督は"被害者意識"からの脱却を狙う。これが本作最大の重要ポイントだ。いつも公園にいる男(演:渡辺大知)とのやり取りでは、これまでと一転して、いつかのほうが暴走気味の変人となり、男を困惑させる。さらには、かつて母が行い自身が激怒した、絵を捨てる行為を自分でも行ってしまう。いずれも、前半と立場を反転させることによって"被害者意識"を脱却せんとする展開だ。

極めつけは、終盤における親友の平井(演:山下リオ)との一連である。平井は閉鎖中の校舎に忍び込んで卒制の絵を描いていた(キャンパスが巨大で持ち帰れなかった)が、そのことが大学にばれてしまった。そのことで大学院への進学が取りやめになるかもと平井を責めるいつかだが、平井からは「絵を持って帰れた人に気持ちは解らない」と言い返される。前半での母親と同様、どう考えても平井のほうが100%悪い。しかし、いつかは自身の"被害者意識"を超えて平井の意思を受け止める決断をする。そして、リアルに微量な抽象性を加えたバランス感覚により、不思議と爽快感のあるクライマックスへと繋がっていく。

本作のラストカットで、いつかと平井の共作と銘打たれたアート作品が登場する。この作品は、平井の絵を背景のよう蔑ろに配置して自分の絵を中央に鎮座させるという、いつかの過剰な自意識が露骨に表れたものであった。だが、"被害者意識"から立場を反転しようとすれば、おのずと加害性が出てくるのは道理であり、親友の絵を粗雑に扱う行為は、今後の表現活動における宣言ともいえる。"被害者意識"を脱却して以降の、のん監督の表現活動には、加害性が必要不可欠なのだ。
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