ヤガンEX

映画とか漫画とか似顔絵とか

【邦画/ドキュ】『東京オリンピック2017 都営霞ヶ丘アパート』感想レビュー--引っ越しを余儀なくされる住民の戸惑いは、今まさに行われている東京オリンピックに我々が抱く戸惑いと同じなのだ

f:id:yagan:20210725165708p:plain
監督:青山真也
配給:アルミード/上映時間:80分/公開:2021年8月13日

 

 

スポンサードリンク
 

 

都営霞ヶ丘アパートという名称は、どれくらい知られているのだろうか。2020年(後に1年延期)の東京オリンピックのために国立競技場の建て替えが行われた際、邪魔だからと取り壊されたアパートである。国立競技場の設計案がザハ・ハディドから隈研吾へと二転三転する中で、同じく解体される日本青年館(こちらは近くに移転)とともに、一部では話題になっていた。別に壊さなくたっていいだろと。

元は戦後すぐの1946年に建造された木造の公営住宅だったが、1964年の東京オリンピックにて国立競技場の建設と同時に、RC造5階建てのアパートに建て替えられた。以来40年以上、ある意味では東京オリンピックのレガシーのひとつとして国立競技場の南側すぐの位置に鎮座し続けたが、今回あっさりと取り壊されたのである。木造時代から居住していた女性住民によると、64年の建て替えや今回の取り壊しの際には東京都の職員から「見た目がみっともないから」と言われたという。

みっともなくて世界中の人の目に触れさせたくないからRC造に建て替えられ、40年経ったらそれもみっともないから取り壊されたのだ。自宅を2度もみっともないと言われたわけである。もちろんひとりの住民がそう言っているだけなので、多分に記憶違いもあるかもしれないが、オリンピックなる御上の決定事項に振り回され続けていると住民が感じるのは、自然な事であろう。

このドキュメンタリー映画だが、特に監督が何かを主張するようなことはない。2014年から17年まで、住民の日常や引っ越し作業などの様子を淡々と記録に映すのみだ。住民からは「ほとんどが取り壊しに反対だ」との発言(日常会話の中で)があったり、反対のための記者会見の様子もあるが、それに対して是も否も示さない。そもそも、何が起きているのかなどの説明も極端に少ない。

さらには、映像がまったく微動だにせず、まるで定点カメラのようである。カメラの後ろに人が存在するのかどうかすら判然としない。カメラだけを設置して撮影者はその場にいないのかと最初は思ったが、絶妙なタイミングでアングルが何度も変わるので、そうではないかもしれない。プライベートな自宅の中で住民たちは食事をしたり世間話をしたりしている映像が流れるが、まったくカメラを意識していないのが、むしろ不自然に思える。

別に演出が入っているとは思わないが、住民たちの日常を自然に見せるために撮影者の存在を消そうとする、不作為に見せるための作為が悪目立ちしている危惧はある。そうまでしても市井のリアルをそのまま提供したいという意図の表れであり、そこは好意的に乗っかるべきなのだろうが。

さて、そんな霞ヶ丘アパートの住民たちの様子は壮絶なものだ。カメラに映し出されるほとんどは80代後半の高齢者で、階段を降りるのすら覚束ない。そんな高齢者が、何十年も住んでいて、おそらく終の棲家にするつもりだったであろう愛着のある自宅アパートを、本人の意思とは無関係に引っ越しさせられるのである。肉体的にも精神的にも重労働に違いない。

引っ越し作業の大変さは、多くの人は身を持って体験しているであろうから、段ボールに荷物を詰めている様子だけでも共感を伴う。さらには、長年使ってきた家具を廃品回収の業者に持っていかれる様子や、17万円(東京都から支給される引っ越し資金の額)では収まらないという会話など、きわめて個人的な哀愁を含んだ切実さが、情に訴えかけてくる。撮影者の存在を徹底的に隠したからこそ、住民の戸惑いがそのまま観客に伝わる。そう、この映画に充満しているのは、"戸惑い"だ。

急に予定外の引っ越しをしなくてはならないことなど、別に珍しい事態ではない。自治体が都市計画のために住民に退去を促すのだって、向こうからしたらいつものことかもしれない。この映画の最大の価値は、庶民の日常を淡々と撮影した映像でしかないのに、それが庶民の思惑とは無関係な世界のトップレベルの決め事の影響をダイレクトに受けているという、どうしようもない現実を浮かび上がらせている点であろう。なぜか引っ越しをしなくてはいけなくなった霞ヶ丘アパートの住民たちの"戸惑い"は、今まさに行われている東京オリンピックにどう接していいか解らない我々の"戸惑い"でもあるのだ。
-----

 

スポンサードリンク