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【邦画】『くれなずめ』ネタバレあり感想レビュー--松居大悟監督の作家性である「強固な主観」が良くない方向に走ってしまったか

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監督&脚本:松居大悟
配給:東京テアトル/上映時間:96分/公開:2021年5月12日
出演:成田凌、若葉竜也、浜野謙太、藤原季節、目次立樹、高良健吾、飯豊まりえ、内田理央、小林喜日、都築拓紀、城田優、前田敦子、滝藤賢一、近藤芳正、岩松了、パパイヤ鈴木

 

注意:文中で終盤の展開に触れていますので、未見の方はネタバレにご注意ください。

 

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元は松居大悟監督の実体験を元にした舞台劇。今回の映画で高良健吾が演じている役柄は、舞台では松居大悟自身が演じている。また、キャストインタビューなどによると、撮影中の松居大悟監督は、まるで演者の一人のような感じだったという。つまり、松居監督自身が劇中にいるかのような、極めて主観性の強い作品なのである。この主観性の強さは過去作(全てではないが)でも現れており、男が主人公であれば自身を投影させ、女が主人公であれば本気で恋をしている。この並々ならぬ主観性の強さこそ、松居監督の作家性だと言ってもいい。

友人の結婚式披露宴のために5年ぶりに揃った高校時代の帰宅部仲間6人。赤ふんどし一丁で踊る余興をするも見事にスベり(この様子は、序盤ではセリフで語られるだけで映像は無い)、二次会までの3時間を潰すためにぶらぶらと町を彷徨う。そして最初に入ったカラオケボックスで、吉尾(演:成田凌)が「俺、5年前に死んでない?」と訪ねるも、他の人たちはなあなあにしてその場をやり過ごす。

そう、実は6人の中に死者が混じっているのである。かといって幽霊らしい振る舞いは一切見せず、生きている5人とは普通に会話をするし、誰の視点なのかは解らないがマイクを持つなどの物理的な行動もできている。何より、死者を含めた6人の様子を外側から見た他者の視点がほぼ無いのは、松居監督の主観性の賜物だとしても、さすがに驚く。いわゆる幽霊モノのセオリーからは外れていて、ちょっと前衛的ですらある。

そんな状況下で、生きている5人のうちの誰かしらの回想が挟まっては、現在軸のちょっとした描写がオーバーラップする、という構図が繰り返される。絡んできたヤンキーに小さな復讐をするとか、おでん屋でのちょっとした会話とか、どれも劇的ではないけれど「相手が死んでしまったからこそ大切な思い出になっている出来事」が各人にあると示される。

上映時間の大半が、客観的に見たら何でもない回想に費やされているので、どうしても退屈な印象になってしまう。でも物語に主観的に参加している松居監督にとっては、どれも大切で特別な逸話(実際にあったかどうかとは無関係に)なのだろう。しかし文化系な仲間内でのホモソーシャルなノリを主観性のみ、つまり全肯定的に見せられると、さすがにキツい。このノリは今泉力哉監督『あの頃。』と通じるが、あちらは客観的な視点があったわけだし。

文化系のホモソーシャルな内輪ノリの醜悪さが最も現れているのが、劇中での女性の扱い方で、特に前田敦子演じるミキエは強烈な印象を残す。なぜかミキエにも吉尾が見えており普通に会話もするのだが、これも5人の主観的な視点だからであろう。もしかしたらミキエも現在軸では実在せず5人の妄想の可能性もある。前田敦子演じるキャラクターがサバサバしているので痛快さはあるのだが、幽霊の未練を浄化させるため(そしてそれが失敗に終わるのを含めて)に都合が良いから吉尾が片思いだった女性を登場させているに過ぎない。飯豊まりえ内田理央も内輪のノリを作るための小道具みたいな扱われ方だったし。

終盤の展開から察するに、「親友が死んだことで呪縛となってしまった過去」が、吉尾の姿となって具現化されているので、それを消すことで各々の過去も清算する、という構図なのだろう(つまり吉尾は幽霊とは別種の存在)。でもさあ、そのひとつひとつが別に清算すべき事柄でもないのがなあ。いいじゃん、死んじゃった親友とのちょっとした思い出として心に留めておけば。そういう客観性が無いから、どうにも入っていけない。

で、主観性による最大の弊害なのだが、結婚式に5人を招待した新郎新婦について一切語られないのである。吉尾が死んでから初めて5人を勢揃いさせた重要な人物であり、彼らとは強い繋がりがあって然るべきなのだが、何者なのか最後まで解らない。終盤の盛り上がりが最高潮となる場面で、結婚式の余興のシーンが流れるのだが、新郎新婦が背景としてしか扱われないので逆にノイズが強すぎる。そして、披露宴会場では吉尾が踊り狂っているのだが、実際はどういう状況だったのか、全く教えてくれない。一人分のスペースを空けているのか、他の人にも見えているのか、全ては謎だ。

客観的な視点がゼロだから、こうなるのである。自分たちの思い出にとって重要ではない人物は平気で存在を無視できるし、無視していることにも気づかない。本来なら注目しなくてはいけない新郎新婦についてきちんと語られないのは、脚本上の瑕疵でしかないのに。主観の内側に閉じこもるから、そういう間違い(って言っちゃうけど)を平気で犯すのである。

ラストにダメ押しで、過去を清算するための説明的なシーンがくっついてくる。そこに至るまでも、この映画は主観性からは逃れられていない。劇中の人物が、というよりは、松居大悟監督が、とにかく客観的な視点を拒絶している。その意地でも主観の外に出ようとしない強固な意志は、今後何かしらの傑作を産み出すための武器になるかもしれない。ただ今作に限っては、松居監督にとっては主観の外側にいる観客の視点が無視されている、という不幸しか生まなかったわけだが。
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