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【邦画】『きまじめ楽隊のぼんやり戦争』ネタバレあり感想レビュー--ロボットみたいに動く人々に憧れを抱いてしまう、戦争映画の新たなる両義性

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監督&脚本:池田暁
配給:ビターズ・エンド/上映時間:105分/公開:2021年3月26日
出演:前原滉、今野浩喜、中島広稀、清水尚弥、木村知貴、友松栄、よこえとも子
熊倉一美、中川光男、黒河内りく、鎌田麻里名、白井美貴、橋本マナミ、竹中直人、矢部太郎、小山弘訓、小野修、ワニ完才、小山更紗、軍司眞人、山内まも留、角田朝雄、長田拓郎、片桐はいり、嶋田久作、きたろう、石橋蓮司

 

注意:文中で中盤までの展開に触れていますので、未見の方はネタバレにご注意ください。

 

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戦争をエンタテイメントの枠内で扱う場合、その凄惨な実態をリアルに描けば描くほど評価される傾向は否めない。『この世界の片隅に』の平静とした空気感や『ジョジョ・ラビット』の虚構的な軽快さですら、戦争をそんな風に扱っていいのかとの批判が一部では出たわけだし。戦争映画では、人体が木っ端微塵に吹き飛んで肉塊がその辺に転がっている残酷描写をするだけで、「よくぞやってくれた」と褒め称えられがちだ。たしかにそれは戦争のリアルではあるが、ひとつの側面でしかない。

池田暁監督の映画『きまじめ楽隊のぼんやり戦争』は、おそらく日本だと思われるが、いつの時代のどこにあるかもわからない津平町を舞台に、川を隔てた隣町との戦争の様子を描く。とはいっても兵隊は朝9時になったら川岸で銃を構えて、適度にノルマ分の弾を撃って、午後5時になったら終了。戦争は町民たちにとってただのルーチンワークだ。リアルな生々しさが排除された空気感は、戦争映画としての評価にマイナスの影響を与えそうだが、ことはそう単純ではない。

登場人物のセリフは全て棒読みで、同じようなやり取りを何度も繰り返す。移動の際は列をなして歩き、曲がるときは常に直角。きわめて虚構的で無機質な空間だ。戦争に関わる人々をロボットのような動きにして、受動的に動かされているのだと提示するアイデア自体は、安易かもしれない。だが、そのアイデアに幾通りものアプローチを加えてひとつの作品にまとめるのは、簡単にできることではない。

町長(演:石橋蓮司)は、朝のラジオ体操をしている兵隊の前で訓辞を垂れるが、いつも大事なことは忘れていて、語尾を伸ばして「どんな脅威かー、忘れましたがー」と間延びした感じで喋っている。煮物屋の店主(演:嶋田久作)は、「俺は何でも知ってるんだ」が口癖で、低い声で知ったような風の口を利く。こんな感じで、いろんなタイプの棒読みを、手練れの役者にさせている。変な言い方だが、誰もが棒読みが巧い。

登場人物に感情のこもった演技をさせられないのは何気に大変で、物語に起伏をつけられず平板になってしまいがちだ。本作ではその点を回避するために、棒読み演技にバリエーションを与えるという、思い切った手段に出ている。しかしバリエーションをいくつも用意するのもまた大変で、セリフの最後に必ず「か?」をつけて疑問文になる人とか、しまいには会話する際に相手の尻を必ず蹴る人まで登場する。かなりぶっ飛んだキャラクター設定だが、無機質に作り込まれた空間では自然に溶け込んでいるので驚く。

※ ふと気づいたが、登場人物たちに決まった口癖や語尾を与えてキャラクターを確立させるのは、ライトノベルの手法に似ている。「俺は何でも知ってるんだ」が口癖なんて西尾維新のキャラそのものだし、語尾を固定化するのは『とある』シリーズなど有名作品にいくつも例がある。

紹介が遅れたが、主人公は兵隊の露木(演:前原滉)。起床して基地に向かい、受付、着替え、午前の戦争、定食屋での昼食、午後の戦争、帰宅途中での煮物屋との会話、夕食、就寝と、固定化したライフサイクルを淡々とこなす。他の町民と同じく、主体性が無く決まったルーチンで動いている人だ。そんな折、トランペットが吹けるからと急に配置転換されて、楽隊に所属することになる。

楽隊の兵舎の位置は誰に聞いても知らず、やっと辿り着いた先は薄暗い地下の非常に狭い部屋。おそらく楽隊隊長の指揮者(演:きたろう)は、打楽器担当の女性にだけ理不尽に当たり、露骨に差別している。しかしその打楽器担当が、楽隊員の男性と結婚すると発表した途端、「未来の兵隊を産む女性は素晴らしい」と手のひらを返し、差別の対象を別の女性隊員に変更する。

ここ以外にも、子供を産まない女性は無価値だと断定する展開が、本作には登場する。戦時下における女性への非人道的な扱いをアイロニカルに表現して批判的なメッセージ性を持たせていると捉えられよう。だが悩ましいのは、この女性蔑視のやり取りが、きたろうの持つ雰囲気も相まって、傍から見ると非常に楽しいものに仕上がっているのだ。

この映画、戦時下どころか現在の日本とも通じる理不尽なセクハラやパワハラが横行していながら、ひとつひとつの場面は役者たちのポテンシャルも作用して、痛快な楽しさがある。そもそも、ただただ決まった通りに動いているだけで、なんだか楽しそうな毎日を送っている町の住民たちには羨ましさを感じてしまう。何も疑問を持たずに生きるって楽だし、引っ越したいもん、この町に

誰かしら絶対的な黒幕が暗躍しているのではなく、主体性なき個人の集合体が戦争を引き起こす。と、ここまでならありがちな主張である。だがそんな状況を楽しく痛快に見せて、観客に憧れを抱かせてしまうところまで突き詰めているところに、この映画の本当の怖さが宿っている。

たとえば戦争映画には、あえて有能な指揮官やかっこいい兵器を出して観客に興奮を抱かせ、戦争に対する両義性を浮き彫りにするタイプの作品がある。池田暁監督は、それを指揮官や兵器ではなく「主体性のない人々」でやってしまったのだ。凄惨な戦争描写では成しえない境地であり、生々しさが無いからこそ生まれるリアルには震撼させられる。

 

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