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【邦画】『記憶の技法』ネタバレあり感想レビュー--少女漫画独特の抽象表現を実写に変換する技量は巧みだが、別の問題が生じていて…

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監督:池田千尋/脚本:高橋泉/原作:吉野朔実
配給:KAZUMO/上映時間:105分/公開:2020年11月27日
出演:石井杏奈、栗原吾郎、柄本時生、西本まりん、木下彩音、後藤由依良、佐藤由良、二階堂智、小市慢太郎、戸田菜穂

 

注意:文中で終盤の展開に触れていますので、未見の方はネタバレにご注意ください。

 

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高校生の花蓮(演:石井杏奈)は、たまに幼い頃の記憶の断片が脳内に現れ、意識を失って倒れたりしている。そんな中、修学旅行で韓国に行くために必要となった戸籍謄本の記載を見たところ、実は自分は今の両親と血が繋がっておらず、4歳の時に養子として家族になったことを知る。さらには両親には、自分と同い年の「由」という名前の実の娘がいた。苦手なはずの酢豚を大好物だと言って食卓に出す親に違和感を持っていた花蓮は、本当の出自を知るべく嘘をついて修学旅行を休み、両親の地元である福岡に向かうのだった。

記憶の技法 (flowers コミックス)

記憶の技法 (flowers コミックス)

  • 作者:吉野朔実
  • 発売日: 2015/08/14
  • メディア: Kindle版
 

 

実は陰惨な事件が絡んでいると判明するなど大がかりな展開にはなるが、物語の骨格は「過去と向き合うことで未来への足掛かりとする」という青春モノの王道パターンを踏襲している。だが引っかかるのは、なんでわざわざ4泊の修学旅行を休むというリスキーな手段を取っているのかである。東京から福岡なんて、土日休みでも充分に往復できるのに。ここだけ指摘すると重箱の隅をつついているようだが、この話、こういう変なところでの引っかかりが目立つのだ。

花蓮は、それほど接点の無い同級生・怜(演:栗原吾郎)に、福岡までの交通チケットやホテルの手続きをすべて頼む。怜は女子生徒とトラブルをよく起こし、学校では浮いている孤高っぽい存在だ。それはともかく、スマホのアプリで簡単にできることを、安くない金を払ってまで(謄本を見られたとはいえ)赤の他人に全て任せるのはなぜなのか。この後、怜は「修学旅行より面白そうだから」と勝手に福岡までついてくるのだが、その布石のための強引な前フリに思える。

原作である吉野朔実の中編漫画を、映画鑑賞後に読んでみたところ、割と抽象性の高い、というか花蓮の内面を主とした話であった。たとえば先述した酢豚のくだりや、夜行電車(映画ではバス)の中で怜から弁当を渡されたときなど、花蓮の脳内が文字に起こされて、酢豚や弁当が自分にとってどういう意味を持っているのか全てを説明してくれる。この、読み上げれば説明的なつらつらとした文章ですらも、ページの中では絵の一部と化していて、抽象的な漫画表現を構成しているのである。

吉野朔実作品を読むのは初めてで、ジャンルそのものにも明るくないのだが、おそらく少女漫画のフォーマットに沿った表現なのだろう。では、そんな少女漫画特有の脳内文字表現を実写にする際、どのような変換を本作では行っているか。たとえば酢豚のシーンでは、スクリーンの端の方で花蓮がパイナップルをそっとティッシュに包んでいるだけで済ますなど、小道具に含まれる意図は、極めてさりげない表現に留めている。石井杏奈のナレーションによって原作同様に脳内を読み上げるとか、そんなことはもちろんしていない。こうした漫画から実写への変換作業は巧みであり、監督・池田千尋と脚本・高橋泉という2人の手練れによるセンスと職人的な技量が如何なく発揮されている。

だが、原作における長い文字表現をさりげない数秒のシーンに変換する作業を何度もしたことで、別の問題が発生している。そもそもが短めの漫画をさらに刈り込んだため、上映時間が有り余ってしまうのだ。少女漫画から主人公の脳内ひとり語りを取り除けば、そうなってしまうのは当然なわけだが。そのため映画では、映像的な抽象表現(花蓮の記憶の断片とか)を何度も繰り返し挿入することで尺を伸ばしているが、どうにも間延びした印象になってしまう。

さらには、中盤の謎解きパートも原作よりも(体感的にも)長くしたことで、観客は徐々に謎が解き明かされていくミステリとしての側面にも注視するようになる(原作は謎解きメインでは無いので、物語の合理性はそれほど気にならない)。そうなると、過去に一家殺害事件が起きていたと判明して以降も、適当に町を歩いて記憶を呼び覚まそうとするなどの(上映時間を埋めるために)ダラダラとした行動をしている2人に、さすがにイラっとしてしまう。おそらく、観客全員が「さっさと図書館に行って当時の新聞を見ろよ」と思うはずだ。

最後のほうになって怜がひとりで図書館に行くけど、遅すぎる。花蓮はホテルの予約もひとりでできないほどなので、図書館に行く発想が無かったのかもしれない。でも、序盤の戸籍謄本のところでは知らない単語をスマホで検索している。事件のあった日付や場所と被害者の名前まで解っているのだから、そこでスマホで調べる発想は無いのか。幼い子供を含む一家4人が惨殺された猟奇事件なんて、確実にネット上にまとめページがあるはずなのに。

なんだか物語上の粗探しをしているみたいだが、ミステリとしての構築をきちんとすれば、諸問題が解決するわけではない。それでは原作の抽象性を損なうことになってしまうから、むしろより悲惨な結果になる。原作の文字表現を刈り込んだために尺が足りなくなったのが問題だったわけだから、オリジナルのサイドストーリーを加えれば良かったのではないか。

福岡に向かって以降、今の花蓮の両親の存在があまり目立たないのは、池田千尋監督の意図であり、そこを膨らますのは得策ではない。ラストシーンでも両親は登場させず、原作と同じく「花蓮が自宅に戻るのではなく、意識を他者に向かわせることで成長を示す」ようにしている(脚本の第一稿では、帰宅して今の両親に「ただいま」と言うのがラストだったそうな)。あまり出てこないからこそ両親の登場シーンはいずれも際立っており、たとえば花蓮が父親に韓国土産は何がいいか聞いてからの一連のくだりは、会話の中身は原作と同じであるものの、父を演じる小市慢太郎の飄々とした感じも相まって、なかなかの名シーンとなっている。

では、サイドストーリーにすべきは何だったか。花蓮の親友グループがいたではないか。原作ではモブ扱いだが、映画では花蓮の深刻な悩みと対比して無邪気さが強調され、それゆえ花蓮にとっての安らぎにもなりそうな重要なポジションの人たち。彼女らとの物語をサイドに走らせれば、尺も稼げるし、メインの物語にも深みを出せたかもしれない。

しかも、これは結果論ではあるのだが、親友の中には『アルプススタンドのはしの方』で稀有な存在感を見せた西本まりんがいるのである。たぶん撮影の順番は本作が先だが、もしもこの親友グループを膨らませていれば、西本まりんが触媒となって、とんでもないことになっていたかもしれない。と、それは希望的過ぎるかもしれないが、まあそんな妄想をしてしまうほどに、惜しいなあと感じる作品なのである。
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