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【邦画】『君が世界のはじまり』ネタバレあり感想レビュー--「どこにでもある郊外」と、大阪という個性の強い土地との相性の悪さ

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監督:ふくだももこ/脚本:向井康介/原作:ふくだももこ
配給:バンダイナムコアーツ/上映時間:115分/公開:2020年7月30日
出演:松本穂香、中田青渚、片山友希、金子大地、甲斐翔真、小室ぺい、板橋駿谷、山中崇、正木佐和、森下能幸、億なつき、江口のりこ、古舘寛治

 

注意:文中で終盤の展開に触れていますので、未見の方はネタバレにご注意ください。

 

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まず、お断り。今回の文章は、自分が映画『君が世界のはじまり』になぜハマれなかったのかを考えたものです。閉塞した郊外でもがく若者の話は大好物で、普段なら本作も絶賛しておかしくないのに、なぜか心情を掻き立てられることが無かったので。そのため、この映画が大好きな方は、以下の文章は読むと怒りを沸く可能性がありますので、ご注意をお願いします。

映画『君が世界のはじまり』は、大阪の郊外にある高校を舞台に、大きく2つの話が並行する。ひとつは高校2年生の縁(松本穂香)と親友の琴子(中田青渚)、琴子が好きな男子・業平(小室ぺい)の微妙な三角関係の話。もうひとつは、同学年でともに家庭に問題を抱える純(片山友希)と伊尾(金子大地)が、ショッピングモール裏の非常階段で逢瀬を重ねる話。2つの話の登場人物は、たまにすれ違う程度で、終盤まで交流は無い。

原作は文芸誌「すばる」に掲載された、ふくだももこ監督による2つの短編。なんでこのタイミングで書籍化しないんだと愚痴りつつ図書館で掲載号を借りて読んでみたところ、まあ映画を観ていた時点で予想はついていたけど、これ全く別の話なのね。登場人物が違うとかいうことではなく、映画のタイトルから単語を拝借すれば「世界」が違う。

映画における「ショッピングモールくらいしか行くところがない、閉塞した地方の郊外」という舞台は、純と伊尾の登場する原作「ブルーハーツを聴いた夜、君とキスしてさようなら」から取り入られている。東京出身の伊尾の視線を通して、ショッピングモールが世界の全てであるかのような空間の異常さが訴えられるシーンは、映画にもある。純と伊尾のもがきには、そんな空間だからこその根拠がある。

一方、縁らによる三角関係の話の原作「えん」。主演が松本穂香とされているし、メインのストーリーはこちらであろう。原作では大阪府の日向町と具体的な地名が出てくるが、実はこの話、あまり舞台の土地性は重要視されてない。工場のタンクや女子トイレ(映画では旧校舎に変更)といった象徴的な場所も、あくまで点としての存在だ。

つまり、「ブルーハーツを~」の世界の中に、「えん」の登場人物や物語を入れ込んだのが、映画『君が世界のはじまり』である。ところがこれが、2つの原作を混ぜ込んでひとつにしたわけではなく、ただ足しただけなので、そのため1つの作品の中で2つの物語が分離してしまい、無理が生じている。

一応、2つの原作を繋げようとしているものはある。たとえば冒頭で示される「高校の生徒が父親を殺害した」という映画オリジナルの要素。たしかに両方の原作に「疎まれている父親」は登場するが、その中身は完全に別種なので、ただそれだけでくっつけようとしてもマスキングテープのような弱々しさしかないし、作劇上は悪い意味でノイズになってしまっている。

もうひとつが、終盤における深夜のショッピングモールでのバカ騒ぎ。ここで2つの物語の登場人物が初めて互いを認識し、行動を共にする。ただここでも、一緒に遊んでいるだけで、きちんと会話したりとかは無いのね。それはひとつの狙いだとしても、問題は「えん」の登場人物にとってショッピングモールは何の象徴でもないのだ。たしか、劇中でショッピングモールに訪れたのすら、その1度きりじゃないか。純でも伊尾でもなく、縁がブルーハーツを歌うのも唐突だし。

先にも触れたように、「えん」では工場タンクや女子トイレ(旧校舎)といった象徴的な場所があり、映画でもそのまま取り入れられている。ところがラストで急にショッピングモールを象徴的な場所として出されても、急過ぎて戸惑う。「えん」の登場人物たちは、閉塞した地方都市に窮屈さを感じているわけではなく、悩みはもっと内向きなのだから。大体、琴子と業平なんて京都に日帰り旅行に行っているわけで、それだけでも閉塞感は薄い。さらには「えん」のほうにも別にラストが用意されているので、ますますショッピングモールのシーンが蛇足に思えてくる。

2つの原作がただの足し算になっている点に加えて、もうひとつ、映画を観ていてずっと気になっていたのだが、劇中の舞台が全く大阪に見えないのだ。いや、それを言い出したら『アルプススタンドのはしの方』だって甲子園球場に見えないが。でもあれは甲子園での撮影許可がNGになって急遽別の球場で撮影したわけだが、本作では監督が「日本の郊外の町はどこも景色が似ているので、大阪で撮る必要はない」(劇場パンフより)と語っていて、最初から大阪に見せるつもりはない。

これは自分自身が関西とあまり縁が無いからかもしれないが、空間が大阪弁で覆われている時点で特殊な地域性であり、とても「日本のどこにでもある郊外」とは認識できなくなる。さらには、劇中にて2つの家庭で食事にお好み焼きが出される。ひと家庭だけなら、その家庭が特殊なのかと判断するが、別の家庭で2度だったら、それはもう特殊な地域性だろう。このように、ここは大阪なんだという土地の主張が強い。しかしロケ地は栃木県なので、半ば無意識に空間の齟齬を感じ取ってしまう。

もちろん大阪にも「日本のどこにでもある郊外」は存在するのだろうが。でも、外部から見ると、大阪ってだけで相当に土地の個性が強いのだ。そのため、この手の話においては重要な"共感性"への邪魔となってしまう。これは自分の想像力の貧弱さが主な原因なのは認識しているので、「あくまで自分にとっては」と注釈すべきことではあるが。

ついでに、もう一点。郊外の閉塞感を描くなら、最寄り駅の位置と規模は教えてほしいところ。外に出るのがどれだけ困難な場所なのかは知りたい。原作の「ブルーハーツを~」では、モールのすぐ近くに駅があると書いてあり、そんなすぐ電車に乗れる場所なんだって思ったが。

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