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【邦画】『Fukushima 50』感想レビュー--圧倒的な現実の前では虚構の物語は成り立たず取っ散らかってしまうのみなのか

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監督:若松節朗/脚本:前川洋一/原作:門田隆将
配給:松竹、KADOKAWA/上映時間:122分/公開:2020年3月6日
出演:佐藤浩市、渡辺謙、吉岡秀隆、安田成美、緒形直人、火野正平、平田満、萩原聖人、吉岡里帆、斎藤工、富田靖子、佐野史郎、堀部圭亮

 

注意:文中では物語の結末に触れていますので、未見の方はネタバレにご注意ください。

 

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49点
公開直後から体のいいサンドバッグ状態で、あらゆる方面からボコボコにされている作品であるが、その理由はハッキリしている。脚本も演出も編集も取っ散らかっているために「制作者が何を提供したいか」という意図が明確に掴めず、観客の側が個々に「自分が求めているもの」を見つけてしまっているのだ。

この映画から政治的思想性を求める観客は、散らかった断片の中から政治的と思われるものだけを抜き出す。同様に、ヒューマン・ドラマを求めていれば家族の絆のシーンを、災害アクションによるスペクタクルを求めていれば津波や爆発のシーンを、観客が好き勝手に抜き出している。だがそれらは統一すらされていない断片でしかないので、自分の求めているものと全く違うと不満を爆発させるのだ。

政治思想的には真逆とされている藤井道人監督『新聞記者』と比較されがちだが、少なくともあちらは「制作者が何を提供したいか」が自明であった。ボクは、その主張のための方法が悪手だと批判したが、『Fukushima 50』の場合は本当に制作意図が解らない。なぜなら映画の作り方が下手だから。

まあでも、今でも日本人の脳裏に悪夢として焼き付いている福島第一原発事故に、物語を付与することで何かしらの中和を図ろうとしているのが、第一の目的であろう。避難を余儀なくされた市井の人々は幾度となく映画で取り上げられたが、事故当時の直接の関係者をメインにした日本映画は、シネコンでかかるビッグガジェットの大作としては初めてだ(小規模ならば『太陽の蓋』などがある)。

福島原発事故における何もできない無力感は、当時リアルタイムでTVを見ていた人ならば、共通して抱いていた気持ちであろう。圧倒的な現実の前では、虚構の物語なんて何も役に立たないと痛感させられた。だが、先の世界大戦だって数えきれないほど虚構の物語を付与されたことで、今ではネタとして扱ってよいものと捉えられている。そこまで遡らなくても、直近の戦争やテロ事件も、主にハリウッドの手により、物語のためのネタとして消費されている。

圧倒的な現実に打ちのめされている人に虚構の物語を提供することは、たとえごまかしだとしても救済となることはあるのだ。映画に限らず物語を紡ぐには、まずは虚構の力を信じるところから始まる。その意味で福島原発の当事者を物語の登場人物にしようとした『Fukushima 50』の意気込みは賞賛したいところだ。だが、何度も言っているように、ちょっと下手過ぎるので何をしたいのか解らなくて…。

この映画に政治的思想性を求める人たちからは、佐野史郎演じる総理大臣のキャラクター造形を含め、現場を混乱させるだけの官邸の描写への批判が集中している。だがこれは、主人公を福島原発1号機の所長と設定したために、ステレオタイプの悪役を官邸と電力会社本店に押し付けたに過ぎない。政治的思想ではなく、人間関係を極めて単純にしたかったゆえだ。それぞれが正しいと思う信念のもと動くような群像劇にすればいいのだが、それだと解りづらいと却下されたか、そんな複雑な脚本を書く能力が無かったのか、真相は知らないが。

そして一番の問題が、この映画には根幹の物語と呼べるものが存在しないのである。実際の原発事故の経過に沿ったエピソードは散発されるが、それらが繋がってひとつの物語を構築しているわけではない。事故への対応だけでなく映画自体も行き当たりばったりで、臨場感を出したかったら大きな声で叫ばせるし、感動的にしたかったら涙を流させる。家族愛が必要と思えば数十秒だけ斎藤工を出し、アメリカの目が気になればダニエル・カールをキャスティングする。ほうぼうに気を使っているのか何でもかんでも手当たり次第に詰め込んでいるので、結局は断片が取っ散らかっているだけの結果になってしまっている。

さらに、最終的に「事故が収束した原因は今も解っていない」なんて結論にしてしまっては、現実に対して物語の付与すらできていない。いくら佐藤浩市や渡辺謙が泣いたり叫んだりしても、それらは原発事故とは無関係だったと最後に言ってしまっているのだから。それでは事故当時に抱いた無力感を改めて再確認するだけだ。首相官邸の動きとかは虚構として変更しまくっているわけだから、そこも嘘をついてしまえば良かったのに。

でも、それが限界なんだろうなあ。「現場の人間が頑張ったから事故が食い止められた」なんて嘘がつけない気持ちは充分に理解できる。福島原発事故は、そんな虚構の物語を付与できないほどの圧倒的な現実なのだ。この映画は、圧倒的な現実の前では虚構を成立させられなかったがゆえの失敗作ってだけだ。よくあるパターンだが。

それでも、福島原発事故を扱った大作が出てきたことで、未来への道筋はできた。今後は「『Fukushima 50』だってあったんだし」という言い訳のもと、同じ題材で映画を制作することができる。海外では、シャロン・テート殺害やナンシー・ケリガン襲撃といった比較的小さな出来事でさえ、虚構のための題材となっている。日本でも『冷たい熱帯魚』『クリーピー 偽りの殺人』『サニー/32』など、殺人事件については物語の付与によって救済が試みられている例はある。福島原発事故だけを特別に神聖視していては、圧倒的な現実からの呪縛は逃れられない。早急に虚構の物語による救済が待たれている案件だ。

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