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【邦画】『ハルカの陶』感想レビュー--岡山発、史上初の備前焼映画だが、いつものご当地映画とは様子が違う

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監督&脚本:末次成人/原作:ディスク・ふらい、西崎泰正
配給:ブロードメディア・スタジオ/上映時間:119分/公開:2019年11月30日
出演:奈緒、平山浩行、村上淳、笹野高史、村上真希、長谷川景、岡田健太郎、勝又諒平、小棹成子、八木景子

 

注意:文中で結末に触れていますのでネタバレにご注意ください。

 

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54点

これ、原作があったのか。原作は史上初の備前焼漫画らしいので、必然的に本作は史上初の備前焼映画であろう。調べていないけれど、きっとそうに違いない。備前焼の魅力を日本中に広めたいとの崇高な想いからか、地元の自治体や企業や各種団体を巻き込んだご当地映画で、もちろん岡山県知事も備前市長も特別出演している。その想いがどこまで通じるかは解らないが、いつものように誰にも相手にしてもらえず存在さえ無かったことにされるご当地映画の宿命を辿らないように祈るばかりである。

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そんなわけでイオンシネマ岡山まで行ってきて、東京より約1ヶ月早い先行上映を観てきました。初日の舞台挨拶付き上映は平日昼間だったにもかかわらず満席。出演者の中でもネームバリューのある笹野高史と村上淳は来ていないのに。ボクが観賞した夜7時の回も20~30人程度の客の入りで、仕事終わりと思われる格好の方が目立つ。なんか上映後に客同士で「どうも」とか言っていたので、この映画を立場的に観ないわけにはいかない何かしらの関係者なのだろう。ご当地映画の現地での扱いを、なんとなく知れた。

さて、あらすじ。ぼんやりと目標もなく生きている東京在住のOL・小山はるか(奈緒)は、デパートの催事場で展示されていた備前焼の大皿に心を奪われる。さっそく本屋で備前焼の入門書を買い、休日を使って備前焼の産地である備前市の伊部駅に降り立つ。ちなみに岡山行きの電車に乗っていたので、姫路あたりから在来線を乗り継いだと思われる。

大皿の作者である若竹修(平山浩行)の工房の場所を聞こうと、路地で小学生と将棋を指している老人(笹野高史)に「すいません」と声をかける。老人は顔すら向けないので、普通は声が聞こえていないと感じるところだが、はるかは構わず「若竹修という方の工房の場所を知りませんか」と喋り続ける。この後も何度もあるんだけど、はるか、相手の様子を見るとかせずに自分の喋りたいことを構わず喋る人である。「空気が読めない」ってやつかな。

はるかは工房には着いたものの、修からニワカの観光客だと思われ「客じゃないなら帰れ」と邪険にされる。落ち込んで夜の道をとぼとぼと歩いていると、昼間の老人に再び出会う。そこで発破をかけられたことで再び工房を訪ねてこっそり覗くと、修がろくろを回して備前焼の椀を制作していた。その姿に見とれたはるかは、一晩ずっと修を凝視し続ける。朝になったところでバタッと倒れたはるかに、修はやっと気づく。この一連、ちょっとしたホラーだと思う。

布団の上で目を覚ますはるか。工房に修の姿はない。そこへ工房が見たいと観光客が訪ねてきたので、ついつい解説を始めてしまう。そこに修が現れて「何してんだ、お前」となるのだが、この映画の目的が備前焼PRであれば、蘊蓄を語って知識を広めるのは重要なことだろう。で、その役割を入門書を1冊読んだだけのはるかにやらせていいのだろうか。このシーンは、修が口下手で人間嫌いであることを示すのが主目的なのだが、それにしても。

前日の老人も工房に現れて、なんだかんだで朝食までご馳走になった後、備前焼に囚われたハルカは「弟子にしてください」と言い出す。「そんな甘いもんじゃねえ」と当然断る修だが、老人から「別にいいじゃないか」と促され、雑用だけならとOKする。言っておくけど、はるかは休日を使って岡山を訪れているだけだからね。その場の勢いで決めていいことなのか。はるか、完全に狂人の類である。

で、シーンは変わって1週間後。押しかけ女房のように工房に入り込むことに成功したはるかは、掃除や買い物などをこなしている。一応、会社に辞表を出すシーンはあったけど、どこに住んでいるのかとか生活費はどうしているのかなど、その辺が何も説明されないのでもやもやする。東京での自宅はどうしたのか。実家暮らしか?

この話、特にやりたいこともない東京のOLが備前焼や地元の人たちを触れ合うことで忘れていた何かに気づいて…みたいないつものやつかと思いきや、どうも様子が違うのである。むしろ空気を読まず他人のテリトリーにずかずか入ってくるはるかが触媒となって、修や備前市の人間が感化されて成長していくのである。ご当地映画としては珍しいスタイルなのだが、備前焼ひいては岡山の魅力を外に発信するという目的とは食い合わせが悪い。それとも内向きな啓蒙なのだろうか。伝統とか気にして閉鎖的になってないで、都会の空気も取り入れろとか、そういうメッセージか。

ここからのあらすじは駆け足で行くが、修は小学生の時に父親を亡くした経験から、自分の周りに壁を作って他人との触れ合いを避けていた。そんなデリケートの過去をはるかに詮索された挙句、あの展示されていた大皿を制作したのは心の底では家族で一緒に食卓を囲む幸せを望んでいるからで、だから素晴らしい作品なんだとか言われる。核心を突かれたために「出てけ!」と言い放つ修。翌朝、キャリーバッグを引いて工房を後にするはるか(ということは、工房に住み込んでいたのか? でも、別のシーンでは「おはようございます」と言いながら工房に来ていたので、よく解らない)。

老人・榊陶人(あ、この人は人間国宝の陶芸家です)から、はるかと接触することで人間嫌いのお前も成長して作品も次の段階に進むかと思っていたとか言われ(しかし余計なお節介もいいとこである)、修は駅まで走って追いかける。プラットホームの反対側から「お前が必要なんじゃ」とか叫ぶ修。これ、完全に告白だよな。この映画が表面的でしかないと感じるのは、人との繋がりや家族の大切さを訴えながら、ずっと一緒にいる若い男女の間に恋愛めいたものが最後まで一切発生しないところ。あと、こういう話だったら修を備前焼の天才職人にするのではなく、最近は伸び悩んでいるとかそういう設定を入れないといけないんじゃないのでは。

実は、物語が完結したと思ったここまでが映画の前半部分。後半でははるかを「浅い思いで来てるだけで、どうせすぐに東京に帰る」と疑っている新たな人物とかが登場する。この時点ではるかが来てから最低2か月は経っているし、その件は駅のシーンで済んでいるので、今さらとは思うが。で、備前焼まつりのミス備前がインフルエンザで来られなくなったとかで急遽はるかが指名されたり、釜焚きの最中に修が倒れてはるかが代行になったりとか、色々とあるんだけど、基本としてははるかの頑張りに周囲が感化されていく話が続いていく。

この映画、初っ端のシーンではるかが備前焼に魅せられていて、しかも劇中で示される備前焼の魅力とは何ぞやということまで瞬時に読み取っているので、備前焼を外にアピールするご当地映画最大の目的は冒頭で済んじゃっているんだよね。あとは備前焼に囚われた女が外から現れて引っかき回すことで、内部の人間が変化していく。ご当地映画としては、確かに珍しいパターンである。そして、劇中で語られる備前焼の魅力は「人と人とを繋ぐ」とか、そんな面白みのないものばかり。まあ、一般人に陶器の素晴らしさを端的に伝えようとすると、どうしても精神論めいた言葉になってしまうのは仕方ないのだが。個人的には、備前焼に関する蘊蓄をいっぱい入れてくれたほうが楽しめたかな。この映画を観たところで、特に備前焼についての理解は深まらなかったのが残念。

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