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【邦画】『スペシャルアクターズ』感想レビュー--積み上げてきた物語を一瞬で無にする上田慎一郎監督の破壊願望が炸裂する

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監督&脚本:上田慎一郎 
配給:松竹/上映時間:109分/公開:2019年10月18日
出演:大澤数人、河野宏紀、富士たくや、北浦愛、上田耀介、清瀬やえこ、仁後亜由美、淡梨、三月達也、櫻井麻七、川口貴弘、南久松真奈、津上理奈、小川未祐、原野拓巳、広瀬圭祐、宮島三郎、山下一世

 

注意:文中で結末に触れています。また、既に鑑賞済の方へ向けた文章となっていますので、ネタバレにはご注意ください。

 

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52点
最後の最後に「この話は全ては誰かしらの思惑によって操作されていたものでした」と種明かしをする手法は、映画では珍しくもない。なぜか今年の邦画にこの手法が多く採用されているのだが、おそらく話を練るのが容易だからであろう。神のごとく物語の全てを掌の上で操る存在は、何だってできるのだから、非常に便利だ。だがこの手法は同時に、慎重に扱わなくてはいけない危うさも備えている。

映画を作ること自体が、世界を意のままに創作するというわけで、神の所業に似ている。「物語は操作されていた」系の作品は、最終的に神の存在を劇中で示しているわけで、つまりは「私は神だ」と名乗っているのに等しい。多少とも繊細な心を持つものならば、その恥ずかしさに耐えられないであろう。そのため、『LOVEHOTELに於けるPLANの総て』では、エンドロール後に神的存在を殺すことで体面を守っていた。

「物語は操作されていた」系のメリットとして、劇中のあらゆる欠点が、伏線なのか作り手の力量不足なのか曖昧にできるという点がある。本作『スペシャルアクターズ』を例に挙げれば、登場するカルト集団の安っぽさが、狙いなのか製作費が安いなど仕方なくなのか判断できない。これは確かにメリットではあるが、たとえ伏線のつもりでも稚拙さを誤魔化しているという印象を観客に与えかねない危険も孕んでいる。特に脚本上の不備の場合は、どんでん返しが言い訳のために見えてしまうだけ損である。

※ なお、この手の話で最も気になるのが費用面で、本作『スペシャルアクターズ』のほかに『イソップの思うツボ』『コンフィデンスマンJP』もだが、そんな大芝居を打つための予算がどこから発生しているのか謎である。

さて本作『スペシャルアクターズ』の物語を簡単に説明する。役者志望だが男性に怒られるなどで緊張すると気絶してしまう青年・和人が、弟の広樹に誘われて俳優事務所「スペシャルアクターズ」に加わる。この事務所は、日常の中で役者が紛れ込むことで問題を解決するお悩み相談も行っていた。和人がいくつかの仕事を経験したところで、カルト教団から旅館を守ってほしいという依頼が持ち込まれる。和人や広樹らは信者のふりをして教団に潜入し、インチキを暴こうとする。

詳細は省くが、途中で「オマエもアクターズだったのかーい」展開を挟み、最終的には和人が子供の頃から憧れている特撮ヒーローと同じアクションを行うことで、教団のインチキを信者に暴く。和人のヒーローへの思い入れがそんなに伝わってこないなど、どうも全体的に構成が骨格のままで詰められていない気もしたが、まあ物語としての意味は解るし、アクションの快活さと巨悪である教団が敗北する過程が重なり合うことで得られる爽快感はある。

だが、これらが全て仕組まれたものなのだと、最後に明かされる。騙されていたのは和人ひとりで、カルト教団自体が「スペシャルアクターズ」によってでっち上げられたものだった。和人が教団のことをネット検索とかしていたら全てが御破算になっていたかもしれない危うい計画だが、まあそれはいい。問題は、先ほどの爽快感から何から、これまで積み上げてきた物語全てが一瞬にして無かったことにされてしまうことである。

「物語は操作されていた」系の最大の危うさが、これである。ここまで観客に提示してきた物語を全て無にするリスクは甚大だ。特に本作の場合は、上田慎一郎監督お得意の無名の役者陣から引き出されたキャラクター的な魅力さえも(観客同様に騙される側であった和人役の大澤数人以外だが)、この種明かしの一瞬で「演技の演技」であると明かされ、存在が無かったことにされる。どんでん返しによってまったく別の物語に書き換えられるわけだが、そこに先ほどの物語を帳消しにしてもまだお釣りが来るほどの魅力が存在しなくては、落胆しか生まれない。本作の場合は、どうであったか。

新たに書き換えられた物語は、和人に対する広樹の兄弟愛である。緊張で気絶する体質を治すべく、かかりつけの医者をアドバイザーとして大がかりな芝居を打ったのだ。この方法に関する現実的な面については触れないでおく。問題は、「ああ、これは兄弟愛の話だったのか」と胸を打つ程度の情報が、観客には全く与えられていないことだ。お調子者で和人にちょっかいを出すような描写しかない広樹が、実はこんなに兄思いでしたと唐突に言われても、「はぁ」としか思えない。そんなとってつけた種明かしをするくらいなら、さっきまでの物語を返してくれよと思ってしまう。

だがこれは、逆に考えるべきかもしれない。『カメラを止めるな!』では各キャラクターそれぞれの成長に気を配っていたのと同じ人とは思えないほど、上田監督は本作では主人公以外を雑に扱っており、よってどんでん返しによるカタルシスを無効化している。技量不足ではなく、わざと残念な結果にしているかのようで、何かしらのやけっぱち感が漂う。上田監督は、映画は単なる虚構でしかないと叫びたかったのではないか。元からなのか時代の寵児として祀り上げられた反動からなのか、ともかく心の底では映画の持つ力に懐疑的であり、それゆえ自暴自棄になっていると考えれば、「物語は操作されていた」系を採用したうえで積み上げてきたものを台無しにする所作にも納得がいく。

あの気楽そうなヘラヘラとした笑顔の裏に、途轍もない破壊衝動があると思うと怖くなってくるし、次作への期待も急に上がるものである。

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