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【邦画/アニメ】『続・終物語』ネタバレ感想レビュー--萌えキャラのアイデンティティを奪うことで生まれる批評精神

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監督:新房昭之/原作:西尾維新
公開:2018年11月10日/上映時間:148分/アニメーション制作:シャフト
出演:神谷浩史、斎藤千和、加藤英美里、沢城みゆき、花澤香菜、堀江由衣、早見沙織、井上麻里奈

 

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61点
サーガのように語り継がれる人気シリーズの劇場版で、劇中でもメタ的に宣言されるとおり、オマケのようなエピソードである。TVシリーズ最新作「終物語」の後日談というか時間軸がその翌日というだけで、「鏡の中」という名の異世界が舞台であるし、本編とは実質無関係に切り離されている。

続・終物語 (講談社BOX)

続・終物語 (講談社BOX)

 

 

まあつまり、設定だけ取り上げれば、セルフ2次創作なんである。フィギュアを始めとするグッズが大量に出ている人気キャラクターたちが、いつもと違う姿を見せてくれるというところが、ファンからすれば希少価値なのかもしれない。鏡に写るのは実物の80%で、残された20%の姿だとかなんとか理屈はつけているが、それは後からのこじつけでしかない。

と、ファンサービスのオマケ回だと断言してしまえばいいのだが、そうもいかないのである。本作『続・終物語』は、このシリーズのファンであればあるほど、欲求不満を覚えるのではないか。というのも、いわゆる「物語」シリーズがずっと行っている、萌えキャラという文化に対する痛烈な批評性が、特に本作では如実に表れているからである。

本作では、人気キャラクターたちが、本来とは全く別の設定で登場する。もちろん本編の流れを汲んだうえで、なぜそうなったかの理屈はつけられてる。一例を出すと、小学生の時に交通事故で幽霊となった八九寺真宵は、「もしもそのまま成長していたら」という場合の成人の姿で登場する。このように、本作における人気キャラクターたちの変化は「もしかしたら、なりえたかもしれない姿」というパターンが複数見られる。吸血鬼にならなかった忍野忍、然り。

「もしも、あのキャラが生きていたら」などのように、本編でのストーリーにIFを設けて分岐させて新たな話を創るのは、2次創作ではひとつのテッパンであろう。本作は、まさにそのような2次創作のやり方を踏襲している。だが本作の場合、ひとつ足りないものがある。変化させていない、本来のキャラクターの成分である。こういう「もしも」設定による変化したキャラは、本来のキャラと対比することで初めて受け入れられるのだが、そこは受け手の記憶のみに任されていて、作中には示されない。

そう、ほとんどのキャラクターについては、いつもの設定のほうが全く出てこないのだ。八九寺真宵は最初から最後まで大人だし、忍野忍はハッキリ顔が映らないし、神原駿河に至ってはレインコートを被った獣の姿のままだ。例外的に斧乃木余接は「主人公・阿良々木暦の様子から元のキャラクターを予想して演じる」というエスパーな理屈でいつもの性格設定に戻り、本作における実質的な暦の相棒となっていた。なので結局、いつもと違うキャラクター達に欲求不満を抱きつつ、いつもと同じ斧乃木余接に安心感を抱くことになってしまうのである

さらには、性格だけでなく見た目まで変えてしまっていることが、さらに欲求不満を増幅する。暦の幼馴染・老倉育が、暦と仲睦まじくイチャイチャする姿は「もしかしたら、なりえたかもしれない姿」だが、性格や口調だけでなく髪形まで変化(ストレートのツインテール→くせっ毛っぽいショートカット)させてしまっては、もうそれはオリジナルの誰かだろう。あれを老倉育だと感覚的に認識できる人、どれだけいるだろうか。元の要素がほとんどない存在を見て自分の大好きなキャラクターだと思い込むのは、ある種の修行のようでもあるし、高度なマゾヒズムのようでもある

思えば「物語」シリーズは、頻繁にキャラクターの見た目、特に髪形を変化させている。大した理由も無く、唐突に。個人的には、萌えキャラにとって髪形は一番重要なアイデンティティだと考えている。萌えキャラの髪型って基本的には、毛量とか重力とかの問題で現実にはありえない造形であり(なので、コスプレイヤーに抱く違和感の多くは髪形が原因である)、だからこそ2次元でなくてはいけない説得力の根拠となっている。また、同一の作品内において各キャラクターの違いは、ほぼ髪形で識別されることからも、大切な要素であることが解る。

「物語」シリーズは、そんな萌えキャラ最大のアイデンティティである髪形を躊躇なく変化させるということを何度も行い、それでいて萌えキャラ文化のトップランナーで居続けている。なぜそんな突き放すようなことを何度もされているのにファンがついてくるのかというところを含めて、これは萌えキャラ文化に対する痛烈な批評精神ではないか。本作『続・終物語』は、そんな批評精神の追求の果てに生まれた作品である。

 

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