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【邦画】『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』ネタバレ感想レビュー--他者を変化させることばかりが、青春の悩みの解決法ではないのだ

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監督:湯浅弘章/脚本:足立紳/原案:押見修造
配給:ビターズ・エンド/公開:2018年7月14日/上映時間:110分
出演:南沙良、蒔田彩珠、萩原利久、小柳まいか、池田朱那、柿本朱里、田中美優、蒼波純、渡辺哲、山田キヌヲ、奥貫薫

 

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63点

人前だとうまく喋れず自分の名前すら言えない女子高生・志乃(南沙良)は、クラスに馴染めずにいたが、同じく周りに壁を作って孤立していた同級生・加代(蒔田彩珠)と仲良くなる。志乃は歌だったら上手く歌えるということを知った加代は、自分はギターを弾くからバンドを組んで文化祭で披露しようと提案する。

志乃ちゃんは自分の名前が言えない

志乃ちゃんは自分の名前が言えない

 

 
言葉を発することができない少女が大舞台で歌声を披露しようと頑張るという話のため、どうしたって、少し前の劇場アニメを思い出さずにはいられない。原作は押見修造が実体験を元にして描いた漫画。未読なので、押見修造に当たる人物が誰なのかすら解らないし、先行作品との時系列も調べていない。知らなかったのだが、歌うことならスムーズにできる吃音の人というのは、現実でも珍しくないそうだ。つまり主人公は実在していてもおかしくない普遍的なキャラクター設定であり、どっちが先かという以前に、そもそもこれをパクりとかいうのは無理がある。

とは言っても、プロットまで似てしまっている以上、どうしても常に比較しながら観てしまった。しかも、先行しているアニメ作品は、実写映画にもなっている。あの実写映画は、アニメだから許容されるリアリティをそのまま持ち込んでしまっているため、かなり無理のある筋立てとなっていたが、それと比較することで本作『志乃ちゃんの~』の生々しいリアルさが更に際立って感じられた。本来なら無関係の作品を並べることで「アレより良かった」的な褒め方は、少々邪道ではあるのだが。

細かいところから行くと、志乃に対する母親や担任教諭といった大人の接し方が、気分が悪くなるくらい生々しいリアルさを放っていた。担任は「もっと周りと打ち解ければいいのよ」と無神経なアドバイスを繰り出す。その論法だと、担任と2人きりの時でも喋れていないということは、そもそも自分とすら打ち解けてないんだってことには気づかないくらい、真っ直ぐなバカである。母親も本心から心配するがゆえにアサッテの提案をして志乃を怒らせてしまう。どちらも純粋に志乃のことを思ってやっているのは確かなために、余計に生々しさが際立つ。

志乃と加代が仲良くなってから、この2人のシーンは、画で見せることが多い。ほぼ無言で延々と道を歩き、ほぼ無言でバス停のベンチに並んで座っているシーンなど、特に象徴的だ。うまく喋れないことからこそ2人だけの独自のコミュニケーションが確立され、閉じた世界が形成されている(それを強調するかのように、この映画はエキストラによる無関係な人間の存在が目立つ)。そんな閉じた世界によって守られた幸福の存在を、しつこいほどに情緒的に確認させられる。この閉じた幸福がずっと続けばいいと思ってしまう。文化祭なんて来なければいいのに、とさえ。

重要な登場人物に、菊地(萩原利久)というクラスメイトがいる。いつも空回りしていて空気の読めない発言を繰り返すこの男は、入学初日から志乃を傷つける。本作の中では非実在感が強いキャラクターであるが、すぐにクラスメイトから相手にされず、孤立していくところまで含めて、彼の持つ痛々しさがこちらにも伝わってくる。この菊地が、のちにバンドに加わろうとしてくることで、2人の閉じた幸福の脆さが露になる。

物語の定型通り、志乃は文化祭直前になって逃げだす。その理由を簡単に説明すると、周囲からの拒絶を恐れていた志乃が、菊地に対しては逆に拒絶をしてしまうという、自己欺瞞に気づいてしまったからだろう。こうして文章にすると途端に矮小化されてしまうが、この心情を解けたアイスクリームで表現する手法は、相当に巧い。この映画、主人公がうまく喋れないという設定を逆手に取って、セリフを廃した表現のアイデアが至る所に詰まっている。

ラストの文化祭でのシーン、ここで大きく定型を外してくる。なんと、志乃は歌わない。代わりに、自分の音痴に対してコンプレックスを持っていた加代が、それでも志乃のために作詞したオリジナル曲を歌う。正直、高校の文化祭だったら普通にあり得る程度の歌唱力だし、ロック調なので音程が外れていても気にはならないのだが。加代が自分のコンプレックスと真摯に向き合う姿に、志乃も感化されて、ついには人前で思いの丈を叫ぶという盛り上がりへと繋がっていく。

実はこの文化祭のシーン、もうひとつ定型を外している。加代と志乃が自分自身と向き合ったこの場に観衆としているのは、菊地以外はこれまでの物語と関係の無いエキストラだ。並の脚本であれば、この場には母親や担任や他のクラスメイトがいるであろう。そして、歌声を聞くなり叫びを聞くなりして、「ああ、彼女のことを解っていなかったんだ」的な思い直しをすることで留飲を下げる、とかいうのがありがちな着地だ。本作は、それをしなかった。志乃にとって向き合うべきは他者ではなく、自分自身だったのだから。他者を変化させることばかりが、青春の悩みの解決法ではないのだ。

 

 

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