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【邦画】『聖なるもの』ネタバレ感想レビュー--複雑極まりない入れ子構造は、映画の枠を超えてくる

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監督&脚本&編集&撮影:岩切一空
配給:SPOTTED PRODUCTIONS/公開:2018年4月14日/上映時間:90分
出演:南美櫻、小川紗良、山元駿、縣豪紀、希代彩、半田美樹、佐保明梨、岩切一空

 

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73点
「PFFアワード」準グランプリ『花に嵐』が一部で話題となった岩切一空監督の最新作。大学の映画研究会の学生が回しているカメラの映像を主体としたフェイクドキュメンタリーのような構成に加え、存在すら定かではない美少女に囚われていく流れなど、本作は『花に嵐』の骨格を踏襲しており、ブラッシュアップ版のようでもある。なお、どちらも主人公は岩切監督自身が演じていて、役名も本人と同じ「岩切」である。

ポレポレ東中野で夜1回の上映。初日は監督とメインキャストの舞台挨拶があり、登壇はしないもののアップアップガールズ(仮)の佐保明梨も出演しているため混雑は予想していたのだが、1時間以上前にチケットを買ったのに座布団席であったのが意外であった。劇場端っこの通路の一番前にて体育座りで鑑賞。おそらく、ポレポレ東中野で最もスクリーンを観づらい位置であろう。実はこれが功を奏し、上映中も常に映画館にいることを意識させられたことで、より本作の仕掛けを堪能することができた。

内容は非常に歪である。冴えない風貌の大学3年生・「岩切」が常に回しているカメラの映像がメインで、そこに彼が撮影している映画の断片が挟まってくる。基本はそのような入れ子構造なのだが、そう単純ではない。細かいところからいうと、大学8年の橘先輩に「俺の映画のメイキングを撮れ」「お前は映画を撮るの禁止」「俺の映画のヒロインを探してこい」と命令に近い形で言われているのだが、「岩切」は一向に守っていない。キレたら恐そうなオーラの橘先輩が沈黙を保っているため、常に何とも言えない不安感が漂っている。

映画研究会には「新勧の怪談」という話が伝わっている。4年に1度、新勧合宿時に髪の長い少女が現れ、選ばれたひとりが彼女をヒロインにした映画を撮ることができ、それは必ず大傑作になるという。というわけで、当然のごとく、「岩切」のカメラに長い髪の少女が見切れる。合宿先で、夜の暗い道をひとり歩く少女を追いかける「岩切」。砂浜に着いたかと思うと、いきなり服を脱ぎ全裸となる少女。その神秘性に圧倒されてしまって「僕の映画に出てください」と言ってしまう「岩切」。

少女を自宅アパートに連れ帰り、一緒に暮らすことを始める「岩切」(この程度で唖然としていたらキリがないです)。何も喋らないが頷くことで意思疎通は取れる彼女に、「南さん」と名付ける。「南さん」をヒロインとした映画の脚本を書き上げる岩切。特撮映画の準備をしていた後輩の女性「小川」に、半ば騙し討ちのような形で映画出演を取り付け、撮影がスタートする。

「南さん」を演じる南美櫻は、パンフレットにも一切のプロフィールが公開されていない。上映後の舞台挨拶で声を聞くことはできたが、劇中と同じ黒い衣装を着て、終始煙に巻いたような話しかせず、ここでも謎めいた存在のままであった。一方の「小川」を演じる小川紗良は実際に岩切監督の後輩で、劇中と同じように、ちょっと手伝うという話だったはずがなし崩し的にヒロインのひとりとされてしまったという。新宿駅の東口で監督と大喧嘩した話などを聞くと、劇中の「小川」と現実の小川紗良も、なかなかリンクしているようだ。

「岩切」の撮っている映画は非常にシュール過ぎて意味不明なのだが、一応は「南さん」が「この世界の外側に出たい」と願う話である。単純に考えれば、この「岩切」の撮る劇中劇を包む外側に、岩切監督の撮る『聖なるもの』という映画がある。ただ、この入れ子構造は途中からおかしなことになり始める。大きなターニングポイントは、空き家だと思って勝手に入った家から住人の女性「松本」(松本まりか)が出てくるところである。後半で何の前触れもなく登場する3人目のヒロインは、自宅での勝手な映画撮影に対してもなんら動じずニコニコと対応し、なんなら手伝うと言い出してくる。

この「松本」の存在する空間もまた非現実であり、周囲から切り取られたような不思議な世界観となっている。別の入れ子が登場したのだ。そんな入れ子の中で、「岩切」がシュールな映画を撮り、その中に「松本」が映りこむのだから、構造上の混乱が増す。そんな「松本」という新たな別次元の存在が介入することもあり、ここから先、どのシーンが現実で、どのシーンが「岩切」の撮る映画で、どのシーンが別の「何か」なのか判断つかなくなってくる。この映画は「岩切」の持つカメラが映している映像でできている、という唯一の頼みの綱まであやふやになってしまうのだから。

このあと、「南さん」が「岩切」の元から消え、「小川」が映画から離脱すると、あることに気づかされる。時おり唐突に挟まれる、明らかに"事後感"と思われる「小川」の顔の超接写ショットは何だったのか。なぜ「小川」は「この宇宙は、誰かの頭の中かもしれない」などと、「岩切」の撮っている映画のテーマみたいなものを甘い声で囁いているのか。そもそも最初から、「岩切」の思考と思われていたナレーションの声を「小川」が担当しているのはなぜなのか。そう考えると、全身黒塗りになって高田馬場の駅前を模したビルのミニチュアを壊す「岩切」の姿を撮影していたのが誰なのか、おのずと解ってくるのではないか。つまり、もうひとりの「監督」の存在に。

さて、この文章の途中でパンフレットや舞台挨拶の話を入れたのには理由がある。映画『聖なるもの』という世界の外側にある一番大きな入れ子が、我々の住む現実世界であるはずだ。この現実世界のものであるパンフや舞台挨拶の発言まで、岩切監督の演出は行き届いている。パンフのインタビューや舞台挨拶に現れる「南さん」も「小川」も、そしてもちろん「岩切」も、実在の人物ではなく、映画の中から抜け出てきたようである。まるで『聖なるもの』の世界がそのまま現実に侵食してきたかのように。

この現実世界に、「世界の外側」に憧れる「南さん」を連れ出してきたということは、どういうことか。ひとつは、「南さん」の望みを叶えたということではある。さらにもう一つ、「南さん」という「世界の外側」を行き来するための媒介を我々と同じステージに置くことで、この現実世界の外側に、さらに大きな入れ子を創り出そうとしたのではないか。「世界の外側」に行けるかもしれないという希望を、観客にも持ってもらうために。壮大な挑戦であろう。

 

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