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【洋画】『新感染 ファイナル・エクスプレス』--ゾンビ映画のパラドックスを再検討することで、本来のゾンビ映画に近づいている

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監督:ヨン・サンホ/脚本:パク・ジュスク
配給:ツイン/公開:2017年9月1日/上映時間:118分
出演:コン・ユ、チョン・ユミ、マ・ドンソク、キム・スアン

 

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74点
ゾンビ映画のパラドックスというものがある。あるっていうか、今ボクが考えたのだが。どういうことかというと、世界中に数百はあるだろうゾンビ映画のほとんどにおいて、劇中の登場人物はゾンビを知らないのである。信じていないのではなく、そもそも知らない。ゾンビ映画の作品内では、ジョージ・A・ロメロなる人物は存在していない。スクリーンのあちら側とこちら側では、ゾンビが実際に登場する以前から、別の世界軸なんである。

『シン・ゴジラ』は、これまで怪獣という概念が一切存在しない世界を舞台にしたのも大きな特徴の一つだったが、ゾンビ映画は昔から同じことを当たり前のようにやっているのだ。だが、ここでひとつの疑問点が生じる。ゾンビ映画には、いわゆる「お約束」が非常に多い。ゾンビ映画の登場人物たちは、ゾンビ映画を観たことが無いはずなのに、ゾンビ映画によくある行動をするのである。これがゾンビ映画のパラドックスだ。

さて、韓国初のゾンビ映画と銘打たれている『新感染 ファイナル・エクスプレス』。後発ゆえの強みであろう、ゾンビ映画のパラドックスを、リアリティ面に即して改めて再検討していると思われる節がある。一例をあげると、かつての仲間がゾンビとなって相対するシーン。バットでぶん殴るのに躊躇するところまでは「お約束」の範疇だが、そこから偶発的に急展開が起こり、その件は終わってしまう。涙を殺して友人をボコボコに殴るとかは、しない。この映画、ゾンビに対して「かつて人間だったもの」という意味付けが薄い。

もう一つの例。他人を犠牲にしてでも助かろうとする自分勝手な人物がいる。ゾンビ映画の「お約束」通りであれば、それまでの悪行の報いを受ける形で悲惨な目に合うはずだが、そういうわけでもない。

ヒーロー然としたキャラクターが登場しないのも、同じことだ。高速特急が舞台なのに、走る電車の上でゾンビと格闘して、トンネルが入ると同時に主人公がしゃがんでゾンビは頭を打って吹っ飛ばされるとか、そういうシーンなんてあるわけない。この映画の中では、人間はすべて同価値なんである。噛まれたらゾンビになる、噛まれなかったら人間のまま、それだけ。生き残れるかどうかは、運でしかない。そしてそれは、ロメロのデビュー作『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』に通じる概念でもある。

本作最大の、ゾンビ映画のパラドックスを再検討した件は何かというと、実は劇中で一度もゾンビが倒されていないのである。主人公たちは、ゾンビを棒で殴って、怯んだ隙に逃げるということを繰り返す。ゾンビの倒し方に気づいていない。ゾンビが発生してからラストシーンまで半日も経っていないだろう。現実問題として、その短期間にゾンビの倒し方に気づくことは難しい。

いやでもこれ、ゾンビ映画としては相当珍しいよ。正確に言うと、最後の最後で頭部に銃口を向ける人物が登場するのだが、そこまで「ゾンビは脳を破壊すると動きが止まる」という情報は一切出てこない。というか、この映画の中に限れば、それが正しいかどうかすら判断できない。それなのに、銃口を頭部に向けているというシーンに違和感を覚えず、すんなり受け入れているのは、スクリーンのこちら側にいる我々は、ロメロ発のゾンビについて知識として知っているからだ。

『新感染 ファイナル・エクスプレス』は、主人公の父娘が目立つために気づきにくいが、登場人物の持つ社会的属性なんてゾンビの群れの前では無価値になるのだという様を見せている。これこそゾンビ映画のパラドックスを再検討したうえでの結論だが、それによってロメロの初期ゾンビ作品に通じてくるのが、なんとも興味深い。

 

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