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【邦画】『バクマン。』ーーおそろしく時代錯誤なブラック企業肯定映画

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週刊少年ジャンプ』の3本柱「友情・努力・勝利」を、ジャンプで連載している漫画家を主人公にした話で語り、それをジャンプで連載するという何重もの入れ子構造で話題だった漫画『バクマン。』の、実写映画化である。

もちろんこの映画『バクマン。』もまた、「友情・努力・勝利」をテーマにした話である。ただ原作における「ジャンプに連載している」という一番大きな入れ子がないために、まずは「ジャンプとは何か」という解説から始まり、大枠をガチガチに固めてくる。さらには、ことあるごとに登場人物たちが「友情・努力・勝利」という言葉を発し、この映画の中ではジャンプ至上主義なんですよと訴えてくる。物語のテーマをセリフで言っちゃうのは宜しくないが、隙あらばアピールしておかないと、「友情・努力・勝利」なんて何の役にも立たない現実の中で必死に生きているであろう観客は、すぐテーマを忘れちゃうだろうからって配慮なのかもしれない。

本作では、話をすっきりさせるために、現実的にはありえない大胆な設定が散見される。例えば、高校生がプロの漫画家になるという話なのに、親が一切出てこない。また、主人公の高校生2人は『少年ジャンプ』で連載が始まり締切に追われる過酷な日々となってからも、いっさいアシスタントを雇わない。もちろん、話を円滑に進めるために大きな「嘘」をつくのは映画の常であって、一向に構わない。ただ、「親には受験勉強と嘘をついて~」みたいなナレーションを入れて親がいることをはっきり言っていたり、同時期にデビューしたほかの漫画家はちゃんとアシスタントを雇っていたりと、あくまで作品内だけで見てもおかしいと感じることが多々ある。アシスタントが物語の邪魔になるなら、作品内から存在そのものを排除するか、もしくは主人公がアシスタントを雇えない理由をこじつけるべきだろう。このあたり、大根仁監督のツメの甘さが目立つ。

あと原作からの大きな改変でいうと、主人公の高校生コンビのうちの一人(真城最高、通称サイコー)が想いを寄せるクラスメイト女子(亜豆美保)を除いて、原作に登場する女性キャラは全く出てこない。原作におけるもうひとりの主人公(高木秋人、通称シュージン)の彼女も完全排除されており、主にこのことによって本作の主人公はほぼサイコーひとりであり、シュージンは脇役の一人という扱いになっている。また、サイコーが漫画を描き続けるモチベーションとして、「亜豆美保への恋心」の比重が原作よりも格段に大きくなっており、かつてジャンプに連載していたサイコーの叔父の存在はどちらかというと漫画家の過酷さを表現するのに用いられ、原作では宿命のライバルという重要な存在であった天才漫画家・新妻エイジに至っては単なるトッピングのひとつとなっている。漫画を描く上での重大な分岐点がくると、目の前に亜豆美保(演じているのは『渇き。』の、あの女)が現れ、三日月型の目で見つめられたサイコーは、絵に描いたような童貞リアクションをしながら再びGペンを握るのである。2時間で話をまとめるべく明快・単純さを優先しているわけだが、男が本気を出すのは女に好かれたい時だけだという大根監督の哲学がバリバリ感じられる点でもある。

さて、ついにジャンプ連載作家となったサイコーは、日中は学校に通いつつ何日も寝ないで漫画を描き続け(アシスタントを雇わないから当然だ)、ついには血尿を出してぶっ倒れて病院に搬送される(ちなみに、こんな状況でも親は一切出てこない)。そこで駆けつけた編集長から「高校卒業まで休載する!」と一方的に宣告される。まあ普通に考えて妥当な判断だろう。無理して漫画を書き続けて体を壊しても本人のためにもジャンプのためにもならない。しかしサイコーは病院を抜け出し、フラフラの状態で漫画を描き続ける。それをバックアップするシュージンと他の漫画家。その姿に感銘を受ける担当編集者。そして、それでもやっぱり原稿が完成できないという段階になって、特にこれまでたいした伏線のなかった新妻エイジがふらっと現れて、独特の形で激を飛ばす。そして出来上がった原稿を編集長の前に出し、「友情・努力・勝利」をキーワードにして休載を撤回させるのである。

いろいろマズイでしょう、これ。ジャンプにおける「努力」って、体調管理よりも夢と情熱を優先して乗り切れってことか。今にも倒れそうな状態で気合だけで仕事してる人に頑張れって応援するのが本当に「友情」か。そういうことで感動させるのが「勝利」か。もう何から何まで、昨今話題のブラック企業とかやりがい搾取とかに通じる考え方なんだけど。別に『週刊少年ジャンプ』が掲げてきた「友情・努力・勝利」が今のブラック企業が蔓延する社会を促進させたとは思わないけど、この映画の中ではそうなっちゃっている。担当編集者が「作家と会社が対立した時、作家側につくのが真の編集者」と言っていた(ちなみに、原作では全く別のシーンで出てくる言葉)けど、作家側だったらGペンを取り上げてでもベッドに寝かせるべきだって。死んじゃったら元も子もないって。

大根仁監督が、こんなスポ根理論を肯定するタイプの人だったとは、ちょっと意外であった。