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【映画/企画上映】歌舞伎町から映画館が消えた日―「新宿ミラノ座より愛を込めて ~LAST SHOW~」(その1)

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58年の使命を終えた直後のミラノ座

 

歌舞伎町に初めて誕生した映画館は地球座という名前で、1947年のことである。終戦から2年後、焼け野原の中にポツンとひとつだけ建ったこの映画館はヨーロッパ系の作品を中心に上映していた。歌舞伎町を繁華街にしようという計画は終戦直後からあったが、様々な問題が発生してすんなりとはいかず、地球座だけが先行してできてしまったということらしい。1951年にオデオン座ができると、その後はオープンラッシュが続き、1956年にはミラノ座が誕生する。なお、新宿コマ劇場も同年に完成。「映画の街・歌舞伎町」が形成されたのは50年代後半ということである。遅ればせながら1969年に新宿プラザ劇場が誕生し、以後しばらくは、歌舞伎町は10以上の映画が常に上映されているという、日本最強の映画の街として君臨し続けた。(参考:『キネマ旬報』2015年1月上旬号 「特別企画 さらば新宿ミラノ座、大劇場の時代」)

ここから個人的な話を交えるが、ボクが大学入学のため上京したのは1999年。初めて東京で観た映画は織田裕二主演の『ホワイトアウト』で、場所はやっぱり歌舞伎町だった(ミラノ座ではないが)。大学生時代は中野に住んでいたこともあり、映画を観たくなったらとりあえず歌舞伎町に行くという感じであった。最大で18のスクリーンがあったので、なんとなく気になる作品の上映にふらっと入るという、かつてよくいた映画好きそのまんまの行動をしていた。映画を求めてあの辺をうろうろしていた姿が、よほど怪しかったのだろうか、職務質問を受けたこともある。終電を逃して朝まで映画をハシゴして時間を潰したことも、当然ある。スティーブン・セガールのワケわからない映画を観たっけ。「映画の街・歌舞伎町」を肌で実感することに、ギリギリ間に合ったといえる。

 

f:id:yagan:20150103092017j:plain矢追純一からミラノ座の閉館に寄せてメッセージがあった。
ミラノ座と矢追純一との関連は、知らない。

 

時は無情にも流れる。ボクが上京してからすぐ、2000年前後からシネマコンプレックス(シネコン)なるものが日本にも持ち込まれる。チケット購入と同時に座席番号を選ばされて他の席に座ることは許されず、映画を観終わったら強制的に退出させられるという理不尽なシステムは、瞬く間に映画館の常識を塗り替えてしまった。新宿では2007年にバルト9、2008年に新宿ピカデリーが誕生し、わざわざ歌舞伎町まで行かなくても新宿駅近辺で映画をたくさん観られるようになった。そして新宿2大シネコンの誕生と入れ違うように、2008年から2009年にかけて、歌舞伎町の映画館がバタバタと消えていった。2010年の段階でミラノ座とシネマスクエアとうきゅうの、スクリーン数でいえば4つのみとなってしまった。

その頃にはボクも、映画を観るのに歌舞伎町まで行くことは少なくなっていた(ライフスタイルの変化によって映画鑑賞の拠点が新宿から渋谷に移っていたというのが一番の理由だが)。ミラノ座が年に数回で、どちらかというと、シネマスクエアとうきゅうのほうが多かったかもしれない。ここでしか上映していない作品もあったし、何より都内で1番座り心地のいい椅子が好きだった(2位はHUMAX渋谷)。ちなみに、ボクのラスト・シネマスクエアとうきゅうは『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』だが、これはちょっと楽しい記憶だ。

そして2014年12月31日を持ってミラノ座の閉館が発表された。ひっそりと閉館する映画館も多い中(歌舞伎町にあったほとんどの映画館もそうであった)、「新宿ミラノ座より愛を込めて ~LAST SHOW~」という名前の大々的な特集上映を行ってくれた。閉館までの2週間、過去に上映した大作やミラノ座にとっての特別な作品を20作品ほど、1本につき500円で観られるのだ。そりゃ行くだろ。といっても年末で仕事が忙しかったため、5作品だけだったが。しかし貴重な映画"館"体験を堪能した。

 

つづく