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【邦画】『ふしぎな岬の物語』--吉永小百合が魔女となり周囲の人々を蹂躙するダークファンタジー

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女性の高齢者に対して、「カワイイ」と言うなど愛玩動物のように接してしまうことは、ままある。人間性の否定にもなりかねず、時と場合によっては失礼に値することであり、あまり歓迎すべき風潮ではないかも知れない。ただ、存在そのものを商品とする芸能人という特殊な職業においては、「カワイイ」というイメージは圧倒的にプラスの要素だろう。女優で言えば、晩年の北林谷栄飯田蝶子は「カワイイおばあちゃん」という役柄で不動の地位を築いたし、最近では八千草薫が「カワイイおばあちゃん」として映画・ドラマで重宝している。

 

しかし、吉永小百合69歳は違う。本人が企画した映画『ふしぎな岬の物語』で、小百合は全力で「カワイイおばあちゃん」というイメージがつかないようにしている。冒頭から険しい山道を登り(阿部寛のうしろを離れることなくついていく!)、ボールとグローブを渡されれば剛速球のストレートを投げる。ありあまる体力をこれでもかとアピールし、自分が「おばあちゃん」ではないことを強調する。また、阿部寛笑福亭鶴瓶も小百合にぞっこんLOVEという設定もスゴい。結婚式の場では偉い人(嶋田久作と、もうひとり誰か)に「お、良い女だな。お酌してくれよ」みたいな感じで絡まれて、小百合にべた惚れの阿部寛が殴りかかったりする。この映画、観客の側に「吉永小百合は性的な魅力あふれる女性で、どんな男でもイチコロにしてしまう」という共通認識がないと、そもそも成り立たないのだ。たまに神保町シアターとかで観るデビュー間もない吉永小百合はたしかに美少女だが、今の吉永小百合に対して「性的な魅力」は、少なくともボクは感じない。これはボクが少数派なだけであって、世間一般ではそうなのだろうか。

 

いや、映画の最初のほうで、小百合は明言していたではないか。東京からやってきた父娘に対し、自分は魔女なのだと。普段は小さなカフェを開き、コーヒーに向かって「おいしくな~れ」(この台詞を言ってるの小百合だぞ)と魔法をかける程度だが、本気を出せば男女問わず虜にするし、泥棒だって改心させてしかも逆に包丁を頂戴する。阿部寛鶴瓶も、小百合の性的な魅力に惹かれていたわけではなく、魔女の呪術に囚われていただけだ。というより、囚われているのはこの小さな町(村って感じでもないんだよなあ)に住む全員だ。部屋が火に包まれる中で小百合が微動だにせず真顔で座っているという夢に出そうなほど怖い火事のシーンのあと、町の人たちが小百合に貢物を授けるべく長蛇の列を成しているのも、小百合の呪術のせいだ。そう解釈しなきゃ意味わかんないもん、この映画。

 

(ちなみに、先述の父娘はずいぶんとオカルティックな理由で店を訪れるのだが、後半にもう一度現れたときは完全にオカルト話だった。この女の子、小百合の後継の魔女なんじゃないだろうか)

 

吉永小百合は、今後も「カワイイおばあちゃん」になりたくないのなら、魔女とか幽霊とか、そういう人外の役をしていくしかないだろう。それって美輪明宏と同じなんだけど。

 

 

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 魔女になる前の小百合