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【邦画】『太陽の坐る場所』--東京に近すぎる地方、山梨県

近年公開された『サウダージ』『もらとりあむタマ子』『太陽の坐る場所』を、山梨3部作と勝手に名付けたい。いずれも、ただ名所や名物を並べただけで粗製濫造される「ご当地映画」とは一線を画し、山梨ならではの土地性を作品内に盛り込んでいるからである。主にマイナス面だが。

(なお、twitter上で同じことをつぶやいたところ「『ナイトピープル』は?」と聞かれた。たしかにロケ地は山梨だが劇中に地名を表すものってあったのだろうか。まあ、あれは舞台が日本のどこであろうと成立しない話だが。銃撃戦の流れ弾で商店街の通行人がバタバタ倒れてたし)

山梨県というのは、「東京に近すぎる地方」である。つくば市小田原市といったギリギリ都内通勤可能な市より少し遠くにある甲府市は、東京のベッドタウンとして振舞うにはちと厳しい。だが、「東京から遠く離れた地方」という、日本のほとんどの土地が持っているイメージを持つこともできない。

そのため、観光地というブランドイメージを持つことも難しい。いや、実際に観光すれば、もちろん魅力的な場所も多々あるだろう。実際、清里石和温泉といった有名な観光地だってある。そういう意味ではなく、「観光地」という言葉のイメージにそぐわない場所なのだ、山梨は。だって東京に近すぎるから。東京都民がこっち方面へ旅行をしたくなったら、せっかくだから山梨県なんか通り過ぎて観光地ブランドを欲しいままにしている長野県まで足を伸ばしたくなるものである。

先に挙げた山梨3部作のうち『もらとりあむタマ子』『太陽の坐る場所』では、主人公の心象を映像的に表すためにJRの駅が使われていた。山梨県の真ん中を突っ切る中央本線は、立川、新宿、そして東京駅まで直結している。感覚として、1日に何本も東京行きの特急(新幹線ではない点も重要である)が走っているのを見せられたら、東京に対する距離感も狂うだろう。「東京へ行く」という言葉に含まれる意味が、日本にある大多数の地方と山梨とでは、全く違うのだ。これが山梨の特異性だ。

さて、前置きが長すぎたが、映画『太陽の坐る場所』である。原作は、「学校という名の監獄」を書かせたら日本一の辻村深月。刊行時に読んだきりで、ぼんやりとしか記憶しかないのだが、小説特有の仕掛けを主題に絡ませた面白さがあった。

映画のほうは、そのあたりの仕掛けは再現されていない。まあ、誰もが『アヒルと鴨のコインロッカー』を撮れるわけではないので、妥当な選択だろう。主人公の高原響子を主軸として、高校時代と10年後の現在が交互に語られる。高校時代の高原響子はクラスの女子の中心のような存在だが、同じ名前の鈴原今日子に「リンちゃん」というあだ名をつけ、名前を奪ったりする女王様体質だ。現在は山梨では有名な地方レポーターみたいになっている。一方、鈴原今日子は「キョウコ」の芸名で大活躍している女優である。この歴然とついた差が、かつて高間響子の取り巻きであった水上由希は面白く、2人を会わせたくて仕方ない。クラス会の出席者集めに必死な島津謙太を含めた4人が主な登場人物である。

正直、エピソードがあまりに断片的で、物語の全容が掴みづらい映画ではある。矢崎仁司監督の作家性でもあるが、今回に限ってはうまくいってないと思う。原作では一種の爽快感を思わせた、水上由希の電話を鈴原今日子が一方的に切るシーンも、映画だとよく意味がわからなかったりしている。

ただ、原作では架空のF県となっていたところを映画では山梨県としたことで、独特の深みが出ているのは確か。主要4人、いや劇中で名前が出てくるクラスメイトの中で、10年後も山梨県に留まっているのは高間響子ただひとりだ。彼女は東京のTV局から引き抜きの話が来るが断ったりと、山梨から出ないよう固執している。

こと地方において、「学校という名の監獄」は、卒業後も持続してしまう。地方そのものが一回り大きな監獄になるだけだから。呪縛から逃れるには、地方の外に出るしかない。しかし山梨の場合、それが東京では逃れきることができないのだ。水上由希は、アパレルメーカーのデザイナーとして働き、地方の人が思い浮かぶザ・東京みたいな生活をしているが、前述の電話の件のように、なんら呪縛から解放されていない。「東京に近すぎる地方」こと山梨では、「東京に行くこと」よりも「山梨に留まること」のほうが、大きな意味を持っている。

高間響子は、山梨に留まる理由を、最後のシーンで鈴原今日子に明かす。これは東京に出ていった他の人たちと大して違いがないからこそ、つまり舞台が山梨だからこそ、原作以上の深みが増している。この一点だけで、本作には価値を見出すことができる。

 

 

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