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【邦画】『夜を走る』ネタバレ感想レビュー--歪んだ現実に対抗する手段として「変わらない」を選択するリスク

監督&脚本:佐向大
配給:マーメイドフィルム、コピアピア・フィルム/上映時間:125分/公開:2022年5月13日
出演:足立智充、玉置玲央、菜葉菜、高橋努、玉井らん、坂巻有紗、山本ロザ、川瀬陽太、宇野祥平、松重豊

 

注意:文中で終盤の展開に触れていますので、未見の方はネタバレにご注意ください。

 

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東京近郊の、周囲に何もないスクラップ工場で働く秋本(演:足立智充)と谷口(演:玉置玲央)。秋本は実家暮らしで童貞の40歳。営業担当だが成果が出せず上司の本郷(演:高橋努)からいびられている。谷口は妻と幼い娘を養う所帯持ちで、職場では要領よく立ち回っているが、実は夫婦ともに不倫をしている。そんな初期設定から、閉塞した地方都市での労働者階級のリアルを描いたよくある作品かと思いきや、序盤から話は予想外の方向へ転がっていく。

発端は、ひとつの死体だ。死体という極めて非日常な異物が置かれることで、彼らの生きる現実は否応なく歪んでいく。秋本と谷口は、死体の責任を押し付けるべく、こっそりと本郷の車に乗せる。その本郷と発見時に居合わせた会社社長は、警察に届けるでもなく、知人の中国人業者を呼んで処理してくれるよう死体を引き渡す。

誰も彼もが、死体を自分たちの暮らす現実を壊そうとする邪魔なモノとしてしか扱っていない。この死体が、かつてはひとりの固有の人間であったという想像力が皆無なのだ。あまりにラジカルな価値観である。ちなみに佐向大監督によると、当初の脚本では死体の処理に右往左往するブラックコメディのような話だったそうだ。『ハリーの災難』みたいな感じだろうか。

それにしたって死体である。とってつけた対応だけでは、平穏な現実をそのまま保つことは難しい。それでも谷口は自分のいる現実を守ろうと、必死にもがく。もう少し具体的に言うと、現実が歪むのを避けられないのならば、その歪んだ現実に合わせて自分も変化しようとする。一方の秋本は、いくら現実が歪もうとも自分は何も変わらないというスタンスを取る。いつも車内で聴いているカーラジオの天気予報が、存在しない地名をつっかえながら喋り出したところで、まったく気にしない。

その結果として秋本は、ある組織に足を踏み入れることとなる。そこに辿り着くまでの過程はあまりに虚構的で、もしかしたら組織自体が秋本の妄想かもしれないと思わされる。美濃保有礼(演:宇野翔平)が代表を務める「ニューライフデザイン」という名の自己開発セミナーと新興宗教の中間みたいな怪しげな組織は、何も変わらない秋本を受け入れる。周囲の人々から「おめでとう」と叫ばれながら拍手され、全てを肯定されて多幸感に浸る状況からは、『新世紀エヴァンゲリオン』の最終回を想起させる。本人が脚本を書いた『シン・ウルトラマン』以上に、庵野秀明の魂が宿っているシーンだ。

谷口と秋本、死体によって歪んだ現実に対して正反対の対応を取っているようだが、「変わらない」という意味では同じであり、2人は表裏一体だ。そして映画の後半、一度は彼らの現実から外側に放出された死体は、再び現実の中に戻ってくる。しかしこの時にはもう、谷口も秋本も歪んだ現実に対する対応を施している最中だ。そのため、死体によって更に現実を歪められようとも、それぞれ自分なりの対応を取ろうとする。

結局のところ、この死体は誰が殺したものなのか、劇中では明らかにされない。谷口は警察に何度も呼ばれて調書を取られるが、そこで語られる内容は日によって違うし、それを受けた調書内容もニュアンスが変化する。さらに、挟まれる回想シーンですら、本当の現実なのかどうか判然としない。もはや現実が歪んでいるというより、死体を起点としていくつもの現実が分岐して同時に存在しているようだ。まさに、シュレーディンガーの猫そのもの。谷口が歪んだ現実に合わせようとすればするほど、どんどんと猫が増えていく。ニャーニャー。

本作にワンシーンだけ出演している松重豊が、この状況を端的に示している。中国人の大物フィクサー役の松重豊は、社長の着ているポロシャツを2万円の高価なものと言ったかと思えば、社長のカツラを2万円の安物と言う。そのやりとりの断片だけ聞いた女性社員は、秋本の借金が2万円だと誤認する。どれも同じ2万円なのに、ポロシャツ、カツラ、借金と、対応するものによって価値が変化し、それぞれが同時に存在する。これは、ひとつの死体からいくつも分岐した現実が同時に存在している状況とよく似ている。

谷口は、「家族を守る」という社会通念上は正しいとされる行為を維持することで自身の「変わらない」を死守する証明とすべく、大量の分岐の中でもがき続ける(ラスト間際の洗車中のシーンでの娘に対する一言が、谷口の疲れを象徴的に示している)。一方の秋本は、全てを受け入れてくれたはずの「ニューライフデザイン」からも「もうあなたには我々は必要ない」と一方的に卒業を言い渡される。それでも秋本は、分岐し続ける現実に囚われることなく、変わらない自分を保ち続ける。

映画の冒頭から比べると変わり果てた姿の秋本は、「俺は何も変わってないんだけどさあ、周りがどんどん変わってっちゃうんだよ」と言う。松重豊の言う2万円のごとく、存在そのものは一定なのに周囲の状況によって相対的に変化が起きているように見えてしまう、という意味だ。その発言をした時の秋本は、女装をしている。いや、女装と言うか、あの死体と同じ服装だ。いくら現実が分岐しようとも変わらないでいるには、その根源である存在そのものになればいい。よくよく考えてみれば、単純な話である。

いくら現実が分岐しようとも、求道的に「変わらない」を突き進んだ秋本は、その変化の根源へと辿り着くことに成功した。それはつまり、いくつもの分岐を同時に内包する歪んだ現実を俯瞰的に視認できる、上位存在になったということだ。分岐する現実の中で最善のものを選ぼうとして疲弊し続ける谷口を、神の視点で見続ける秋本。秋本と谷口、どちらが幸せなのかは解らない。ただ、どちらにしてももはやそれは現実を生きているわけではないことだけは、はっきりと言える。圧倒的な現実に対して「変わらない」を選択すると、それほどのリスクが伴うのである。
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